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あなたにとって簡単なことは、誰かにとっての難しいことかもしれない

自分がどうしようもなく無力に思えるときがないだろうか。
才能がない、かといってそれを埋めるほどの努力もできない。自分に一体何ができるというのだろう……。

幼いころの、根拠のない全能感を背負って生き抜くには、世界は広すぎる。自分よりも才能がある人、努力ができる人に出会って自信を無くして、それでも何か自分にできることを探して生きてゆくのが、大多数の人には精一杯の生き方だ。

小学校までの私は、自分のやりたいことはこれからすべてできると思っていた。部活に夢中になった中学時代は、勉強が私よりもできる人に大勢会った。その部活で上を目指せるような高校を選んだが、技術も努力も到底及ばない人たちの中では、3年間辞めないことだけで必死だった。「大学に入れば……」と思っていた。ずっとやりたかった哲学だけを勉強すればいい。数学も化学もやらなくていいし、部活には入りたいけれどそこまで打ち込まなくてもいい。

しかし大学では、私は二枚舌、いや四枚舌くらいの生活を送ることになる。
授業には真面目に出席し、レポートも試験もしっかりこなした。だが哲学科において、「できる人」とされるのはそういう人間ではない。円になって行なうゼミの授業や研究会、あるいは飲み会で、まともに議論ができる人だ。自分が発表者になっている場合は事前に準備ができるが、聞く側に回る場合、相手の話を理解し、それに対する質問や批判をすばやく言葉にしなければならない。そして私は、こういったことが致命的に苦手だった。
いわゆる「真面目ちゃん」で生きてきた私には、本や教科書をがんばって理解する、ということが当たり前だった。そこにケチをつけてやろうだなんて考えたこともない。それを「すばやく」ということは更に難しかった。
哲学科で劣等感を抱いた私は、「部活が忙しくて」という言い訳をしょっちゅう口にするようになった。部活では「哲学科の勉強が忙しくて」と、ろくに練習に行かなかったくせに、だ。

大学院に入ると部活という言い訳は使えない。新たなる言い訳は「私は英米系の哲学が専門だから」だった。学士も修士も同じ大学に通ったが、そこはドイツ哲学のメッカだったのだ。
通っていた大学には私の専門を詳しく教えられる先生がいなくて、まったく別の大学に先生を見つけて、専門的なことはそのO先生に教わりに行っていた。O先生の授業にも出席させていただいていたので、そこの大学の学生とも親しくなったが、やはり議論の場では発言できない。私の言い訳は「ドイツ哲学が主流の大学から来ているから」だ。

今思えば、誰も私に言い訳など求めていなかった。私自身も、口に出していたかどうかは思い出せない。なのにこれらの言い訳がはっきりと胸に刻まれているのは、自分自身への言い訳だったからだろう。

今回タイトルにした言葉は、修士論文の執筆中、O先生に言われたことである。
正規の学生ではないのに、O先生は「自分も勉強になるから」と言って修士論文の指導もしてくださった。個人指導の時間を作っていただいて、章や節ごとのテーマについて先生と話す。私は次の週までにその内容で論文を書き進めてくる。それを先生に読んでいただいて、また議論する……ということを繰り返した。
ある日先生が、
「毎週書いたものを持ってきてくれるのはすごいですね。内容もしっかりしています。素晴らしいですよ」
と私を褒めた。私はすぐに「とんでもない」と否定した。
「先生にお時間を取っていただいているのだから文章を書いてくるのは当たり前だし、内容も先生のお話をそのまま書いただけです」
「それは全然当たり前のことではありません。期日までに提出できない学生も多いです。Mさんのように『文章にまとめる』ということが苦手な人もいます。自分の得意なことを、こんなの当たり前だと思わない方がいい」
Mさんは授業中にもたくさん発言する快活な女性で、彼女にそんな側面があるとは知らなかった。彼女のような人が優秀な哲学研究者なのだと、私は劣等感を抱いていたくらいだ。
「あなたにとって簡単なことは、誰かにとっての難しいことかもしれない。そしてその逆もあります。このことは忘れない方がいい」

今でも時々この言葉を思い出す。私にとっては大事な言葉だ。
ないものねだりをする前に、自分に与えられたものを大切にする。他人に「当たり前」「普通」を押し付けない。
劣等感を募らせて言い訳を並べる前に、自分にできることをしよう。さあ、今の私にできることは?

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