幻交【小説】〜初投稿から二周年記念作品〜

新条光子サイド

No.1 いつもの毎日

雪が空から降っている。キラキラと光る雪はたちまち地面を真っ白にした。季節は冬。ガラス張りなので仕事中に外を見渡せる。外を見ると薄く積もった雪の上をコートに身を包んで歩いている人が沢山居た。ここ東京・銀座では何日間か続けて雪が降っている。クリスマスが近づいているせいか、カップルが街を歩く姿が多くなったような気がする。宝石店で結婚指輪を探し求めているのかと推測する。ほとんどの人が幸せなそうな表情をしている。帰り際、あのカップルやこのカップルは夜の街に消えていくのだろうと想像する自分が居る。

外の景色を眺めていて、カウンターの前に一人の客が立っているのに気づかなかった。思わず「あっ」と声を漏らしそうになった。気を引き締めないといけない。客の年齢は50代くらいか。お世辞でも美人と言われる程ではない顔立ちだ。その原因は顔の皺が目立っているせいだろうか。

「この化粧品効果ないんだけど?」

その客は怒りの籠もった口調で店で売っている商品をカウンターの上に置いた。容器の中身は半分ほど使われている。置く時に少し大きな音がした。数人の客がこちらに視線を向けた。

「申し訳ございません」

「あなたは美人だから分からないかもしれないけど、私は化粧品に命を掛けているの。そんな謝罪じゃ足りないわ」

頭を下げマニュアル上の謝罪をした。決して心の底から謝っている訳ではない。私は販売員で企画するのは他の社員の仕事である。客は私に言っても無駄だと分からないのだから仕方がない。客サイドからすれば、怒りの矛先を誰に向けようとも構わないと思っているのだろう。今回は私がターゲットになった。一番狙われやすい社員はコールセンターの人だ。その次が販売員である。ただ、顔が見えない良い点がコールセンターにはある。しかし、表情を読み取られる対面同士の接客業とは大変だと実感する。

私の名前は新条光子。岐阜県の高山市で生まれた27歳。五年前、地元の大学卒業後、田舎に嫌気が刺した私は東京での仕事を見つけた。卒業してからずっと銀座にある化粧品店・涼香で働いている。高級商品が多い店でそこそこの名が知られている。その分、プライドの高い客が多い。その中で販売員として働いている至って普通の社会人だ。今日も接客に当たっては怒られる日々を過ごしている。普通すぎる毎日に内心、飽き飽きしている。

怒るだけ怒ったクレーマーが帰ったと同時に休憩時間になった。思わず吐息が出た。小さい休憩室には同僚の佐波和美がスマホを片手に座っていた。細長い足を組んでいる。顔には化粧が施されている。和美は東京の立川の生まれで、時計販売員の彼氏と付き合っているという自慢話を三回は聞かされている。スマホから目を離した和美はこちらを見るなり

「光子お疲れ。さっきのクレーマーって前も来た人だったね」

と言った。同い年の同僚だが、馴れ馴れしく話してくる和美とはあまり合いそうにないので、距離を置いているつもりだが和美は気づかないのだろう。和美と話すのは出社時間と、この休憩時間のみだ。

「そうだったけ?あんまり覚えてないわ」

「そういえば光子って結婚前提の彼氏いないの?私は時計屋の彼と結婚して仕事辞めたいと思っているんだ」

いつも同じような事を言っている。確か彼と結婚する気があると言ったのは二年前くらいから。いつになったら結婚するのだろう。とは言っても和美がいつ誰と結婚しようとも関係ない。今は、結婚しないからと言って恥じる時代じゃない。こうして感情を交差させる私は結婚という言葉に敏感になっていると一瞬思った。人はムキになればなるほど結婚を気にしてるのかもしれない。

「光子は美人だから彼氏なんてすぐ出来るよ」

半分皮肉とも取れる発言を聞き流しながら、あと5分しか休憩が無いことに気づいた。スマホでインスタのストーリーを流し見してから仕事を再開した。仕事中は数人の客に化粧品の効果などの商品説明をした。客の数はまばらだった。数時間後、仕事が終わった。コートを羽織り、鞄を持って店を出て駅に向かった。和美は早く早退していた。理由はなんとなく分かる。私は友達も少なく、家に帰れば飯を食べて寝るだけだけで特になにもすることはない。これを孤独と言うのかな。

「今日もいつもどおりの一日だったな」

と空から降ってくる雪を見ながら心の中で呟いた。

No.2 出会い

いつも同じ時刻の電車に乗った。言うまでもなく東京の電車は混んでいる。満員電車の中でサラリーマンなどの背中を見ると人の数だけ人生があるんだなと思う。駅に到着した。降車口からは蛇口を撚ると出る水のように人が降りだした。自宅である川崎市宮前区・菅生にあるアパートに向かった。そこは二階建ての古アパートで外壁もボロボロになっている。管理人のおばさんは認知症が始まっていると最近気づいた。私の住んでいる部屋は203号室。二階に上がる階段を登る前に周りを見渡した。最近、誰かに付けられている気がしているのだ。自意識過剰かもしれないが自分の身は自分で守らないといけない。都会に出てきて分かったことの一つである。

カバンからドアの鍵を出しながら階段を上がる。古びた階段のきしむ音を聞きながら二階に上がった。一直線に伸びている廊下を見ると私の部屋のドア付近に男がうつ伏せで倒れているのを発見した。緑色のコートを着ていて、痩せていて平均的な身長だ。思わず私は駆け寄って声をかけた。

「大丈夫ですか?」

体を揺さぶって、声を掛けても返事がない。渋谷とかの道端で倒れている人を見ても助けないと思うが、家の前で倒れているのでは助けるしかない。救急車を呼ぼうと思ってカバンに手を入れた。その時、男はうっすらと目を覚ました。こちらに顔を向けた。顔が痩せている。栄養不足なのだろうと思った。

「食べ物を・・・」

男の声は力が籠もっていなかった。外は寒いので中に入れてあげることにした。私の住んでいる部屋は1DKで仕切りは無い。台所にある新品の薬缶に火を付けた。音を立てて燃える青い火を確認してからカップラーメンの包を剥がした。それを小さな机の上に置く。男は右壁に持たれて遠くを見ている。その目には絶望の目をしていると感じられた。薬缶の音がカタカタと鳴った。火を消してカップラーメンに湯を注いだ。冷蔵庫から缶ビールを出した。

「あなたの名前は?」

名前を聞いても返事が無かった。聞こえていて無視しているのか聞こえていないか分からない表情で壁の一点に視線を向けている。二人は無言のまま、3分が経った。ラーメンが出来た頃なので、蓋を開いた。そうすると男は割り箸を持つなり、がむしゃらにラーメンを口の中に入れた。注いだと言ったほうが的確かもしれない。獲物を見つけたトラのような感じがした。カップラーメンが出来上がるまでの時間と同じ位で食べ終わった。満足したのか顔には笑顔が蘇ってきたように感じられた。

「俺は正永博也…」

男が口を開いた。それから、男はおもむろに話し出した。私は缶ビールを飲みながら話を聞いた。内容をまとめると男の名前は正永博也で愛知県にある工場で勤務していたが、ある理由から今は無職。借金取りに追われて神奈川県に逃げて来たらしい。年齢は20代後半くらいと推測した。クビになった詳しい理由は話してくれなかった。

私も飲みながら自己紹介をした。名前や好きな食べ物や某化粧品店で働いていることなど当たり障りのない事を話した。缶ビールが空になってから酔いが回ってきた。仕事の疲れで、話をしている内に眠くなってきたので、その辺に横になった。

No.3 帰る場所なんてない

昨日はカーテンを閉めていなかったので朝の光が目覚ましのように照らしていた。いつの間にか寝てしまった。昨日の男の事を思い出した。横を見ると正永は倒れるように寝ていた。その顔を見ていると正永はうっすらと目を開けて起きた。小さいあくびの音が聞こえる。

「これからどうするつもり?」

正永が起きてから、少ししてから聞いた。目が完全に覚めたと思ったからだ。

「帰る場所なんてない。親も親戚も居ない。行く場所もないんだ」

正永は申し訳無さそうに呟くように言った。その言葉は私に響いた。帰る場所なんて無いのは私も同じだった。地元の大学に通っていた時に親と喧嘩した。一人っ子だった私の親は農家をしていて継ぐか継がないかで揉めたことがあった。結局継がなかった。二度と敷居を跨ぐなとまで言われた。あれから5年間一度も実家に帰ったことは無い。連絡もとっていない。

私はどのような返答をすればいいか迷った。普通なら初めて会った人なんて部屋に入れない。何故入れてしまったのだろう。少し考えて気づいた。この人に恋してしまったのだ。いつかどこかで見たことがある安心感に包まれている。顔もそこそこイケメンに思えた。不思議と引き寄せられる感覚になった。

「帰る場所がなければここに住んだらどう?」

と提案してみた。乗りかかった船だと自分自身に言い聞かした。これもまた運命かもしれないとロマンチックな妄想をしてしまった。

「ありがとう」

男は笑顔になった。その顔は爽やかに感じられた。

それから二人の生活は始まった。私は正永博也を博也と呼ぶことにした。一方博也は私のことを新条さんと呼ぶ。私はいつもの職場に向かい、博也は職探しに出かけた。そんな毎日が続いた。まだまだ二人は知らないことだらけなので、たくさん話した。川崎市内の色々な所に行った。そして、たくさん笑った。これまでの人生の中で一番幸せな時間かもしれない。

博也と出会って数日後のある日、家に帰ると博也が晩ごはんを用意してくれていた。いつもは私がコンビニ弁当二人分を買ってきて食べる毎日が続いていた。いつものようにコンビニ弁当の袋を捧げて玄関を開けると良い匂いがしたのだ。テーブルに座ると机の上にはトマトスープやミックスサラダが盛られている。博也の見た目からは想像出来ない器用さだ。スープに手を伸ばし飲んだ。味は薄かったが温かみが感じられた。外は凍える寒さだったので一層胸が温まる。

「博也、いい仕事見つかった?」

「まだ決まってない」

そう言ってから博也は私を見つめてきた。その目は私の目というより体を見つめていた。

「どうしたの?」

私が聞いた時だった。博也は私の正面から抱きついてきた。そして、口付けを交わした。初めて交わす博也の唇は温かかった。博也は唇を離した。体は密着させたままだ。

「したい」

嫌じゃ無かった。それは私が恋をしているからだと思った。博也なら抱かれてもいいと思った。お互い服を脱いで赤ちゃんに戻ったように感じた。布団に横になり、胸を揉まれる。この感触が久しぶりに感じた。博也は慣れた手付きだった。幸せの沼にハマりそうな勢いで博也の体と体を合体させた。いつもは短い夜だと思っていたけど、今夜は長くなりそうだ。

博也も私も帰る場所なんか無くていい。二人で一緒になれば寂しくなんかないと思う。

No.4 仮面

幻に感じられる夜から数週間が経った。博也は新しい仕事を見つけた。川崎市内にあるコンビニの店員と聞いている。今日は仕事帰りに横浜港で待ちあわせをしている。待ちあわせ時間は午後八時。博也はスマホを持っていない。誰も連絡を取る相手はいなかったから必要ないらしい。

待ち合わせ時間丁度に行くと博也は夜景を眺めていた。今日は二人とも仕事だった。後ろから声をかけると博也は振り向いて笑顔を見せた。遠くから船の汽笛音が聞こえる。

「話ってなに?」

「単刀直入に言う。付き合って欲しい」

「……本当に単刀直入ね」

「ごめん。新条さんの…いや光子の気持ちを知りたいんだ。俺は光子の好きなタイプの爽やかで背が高すぎない男と思っている。釣り合うと思う」

「釣り合うって。もう付き合っているみたいなものだから、これからもよろしくね」

博也は抱きついてきた。人通りは少なかったが、少し恥ずかしかった。

「ねえ、どうしてここで告白する気になったの?一度も来たことないけど?」

「え?君が前に…いや君が好きそうな場所と思ったからさ」

博也は少し声を詰まらせていった。寒いから喉の調子でも悪いのかなと思った。その勢いで二人は近くのホテルに行くことにした。

こんな幸せが続くと思っていた。しかし、付き合っている内に博也の言葉に違和感を感じるようになった。私が出勤する時に

「涼香って何人働いているの?」

と聞かれた事があった。私は化粧品店で働いていることは話したが、店名までは言っていない。それに、告白された時もそうだった。私の好きなタイプを博也は知っていた。これも話したことはない。そして、最も気になるのは最近、ストーカーの気配が無くなったことだった。

博也が寝ている内に、悪いと思いながらも彼の服のポケットを探った。初めて会った時に着ていた緑色のコートだ。その中から一冊の青色の小さな手帳とペンが出てきた。手帳を開いて内容を一瞥するとと驚いて目をパチパチさせた。

最初のページには私が一年くらい前まで横浜市に住んでいた頃のことなどがきめ細かく書かれていた。私が寄っていたスーパー玉丘や一年前まで付き合っていた男の名前・性格・職業などが書かれていた。喧嘩別れしたことまで書いている。何よりも驚いたのは私の裏垢まで把握していることだった。そこには客に対しての悪口ツイートも含まれている。ツイート内容もきめ細かく箇条書きしている。一番最近のページには昨日の私の行動が書かれている。ひと通り読み終えて確信した。博也はストーカーということだ。優しさの仮面を被っていたのだ。

博也は計画を立てて私と出会った。偶然では無かった。今、考えればドアの前に居たのも変だった。一階ならまだしも疲れている体で二階に上がる理由は無い。恐怖と裏切りが頭の中を交差する。そうだ、逆に博也をストーカーしてみようと思った。博也の被っている仮面の中身は何だろう?

目には目をストーカーにはストーカーを。

No.5 幻想

次の日の夕方、博也が出ていったので後を付けてみた。 博也は緑色のコートを着て、どこかに寄る素振りもせずに歩いている。博也は電車に乗った。博也は電車の窓の外を眺めている。横浜市に向かっていることが分かった。博也は横浜の夜景が見える港に向かっていると気づいた。告白された場所だ。あたりはすっかり暗くなっている。前と同じように柵に手をかけて博也は夜景を眺めていた。博也の背後に近づくと気配に気づいたのか、博也は後ろを振り向いた。その顔に驚きの表情が浮んでいた。

正永博也サイド

No.1 孤独

俺の名前は正永博也。29歳。俺には親も親戚も居ない。愛知県にある孤児院で育った。親は誰か知らない。もちろん親戚も。後から知ったことだが、俺は道端に捨てられていた。それを児童相談所の係員が通報を受けて保護した。それから中学生まで孤児院で過ごした。中学を卒業してから工業専門学校に通った。通称高専と言われている。紛れもなく手に職を付けるためだった。別に夢なんか無かった。ただ生きていくための手段だった。とんとん拍子に時は流れ愛知県の工場に20歳で就職した。

一年前。28歳の時だ。迂闊だった。金属を加工する機械が故障してしまった。危ないと思い、作業台から手を離した瞬間に20代の女性社員の胸に触れた。その女性社員は悲鳴を上げた。女性社員はセクハラだと騒ぎだした。それよりも機械の故障が気になって弁解するタイミングを逃した。騒ぎを聞きつけた周りの作業員が集まってきた。

事故の後、人事部長に弁解したが、部長は言い訳と解釈したらしい。痴漢の冤罪みたいだなと思った。それから人事部長から嫌がらせを受けた。会社は俺をクビに出来ないので嫌がらせを始めた。もちろん、会社を辞めさせるためだ。人事部長は60代で、メガネを掛けている。ネチネチと嫌味を言ったり金属加工中にぶつかったりしてくる。頼れる同僚ですら話しかけても無視するようになった。人事部長の指示だろう。みんなが無視するのは会社という組織の中で生き抜くための策だと分かっているのだが。

こんな会社辞めようと思った。無理して反発して居座る理由なんてない。別に好きで働いている訳ではない。辞表を人事部長の顔に投げつけてやった。辞めてからというもの、酒に明け暮れた。余っていた貯金を使ってキャバクラに通って大金を使った。付いたキャバ嬢は、セクハラだと言った女性社員に似ていた。もちろん別人なのだが、何故か性欲が出てきた。体で怒りをぶつけたくなった。くどき、金を使い、そのキャバ嬢と肉体関係を持った。行為中の俺は、キャバ嬢の顔にあの女性社員の顔を重ね合わせた。

ー俺はお前のせいでこんなことになったんだー

そうしている内に借金が増えた。住んでいるアパートに借金取りが来るようになった。年齢は30代くらい。肌の色が黒っぽくて高身長だ。筋肉バカと言った所か。ドスの聞いた声で同じ「借金返せ」を繰り返している。語彙力が無いのか、体力しかない人間の典型的な言葉使いだった。繰り返し同じことを言うので、一瞬テープかなと思うこともあった。俺は、この街に居られないと思った。

余っていた少々の現金を握った。どこか遠くに行くことを決意した。

No.2 出会い

新幹線に乗って、神奈川県の横浜市に着いた。逃げる場所ならどこでも良かった。これからどうしようかと思った。まず古いアパートを借りた。それから職を探しながら数日が過ぎた。やはり都会は仕事がたくさんあった。

ある日、寒い夜なので緑色のコートを羽織ってコンビニに買い物に行った。手帳とおにぎりを買って店を出た時、一人の女が目に止まった。その瞬間に胸がときめいた。まるで幻のような彼女に一目惚れをした。思わず跡を付けていった。コンビニで買った手帳に彼女の行動を書いた。数分歩いて、彼女のアパートを突き止めた。彼女は201号室に入っていった。数分して、部屋の前に行った。部屋のドアには新条というネームプレートが貼っていた。彼女の名前、住んでいる住所などをメモした。

次の日の翌朝からアパートが見える位置で張り込んでいると新条が出てきた。こちらの様子に気付いていないようだ。昨日と同じように手帳にメモする。少し歩くと駅に着いた。新条は電車に乗って東京に向かっている。数十分後、東京・銀座に着いた。銀座通りを歩いている新条は道端で一人の女と出会った。新条はその人のことをカズミと呼んでいる。職場の同僚なのだろうと思った。二人は近くの化粧品店・涼香という店に入っていった。まだ営業はしていない。ここが新条の職場だと確信した。

No.3 別れは突然に

ガラス越しに新条の姿が見えた。どうやら客に怒られているようだ。必死に頭を下げている。仕事は何時に終わるのだろうと思った。立ったまま待つのも疲れるので、化粧品店のほぼ真正面にある喫茶店に入った。店員に席を案内される前に窓側の席に座った。やってきた店員にミルクティーを頼む。コーヒーは好まない。

数時間後、あたりは暗くなった。新条が店から出てきた。店内にあるアンティーク風の時計を確認した。手帳に退勤時間をメモする。お会計の金額に驚いたが、渋々金を払った。店を出て新条の後を付けた。新条は来た道を引き返すように同じルートで同じ通勤時間でアパートに戻った。寄り道はしないらしい。

今日の朝と同じ場所で張り込んでいると一人の男が現れた。どうやらアパートに向かっているようだ。その男は爽やかで背が高すぎない丁度いい男だった。年齢は30前後といった所か。アパートの住人かと思ったが、階段を登り彼女の部屋のチャイムを鳴らした。新条が出て笑顔で部屋に招き入れた。新条の表情からすると彼氏だなと思った。

新条の部屋の前まで行った。ドアに左耳を付ける。微かな声がした。

「ミツコ、好きだよ」

「私もシンジが好き」

そんな会話を聞いた。心の中で舌打ちをした。彼氏持ちかよ。何とか二人を別れさせて俺の女に出来ないかという思いが頭を過ぎった。このままの姿勢で居て、バレては困るのでアパートから離れた。

次の日の朝、その男が部屋から出ていくのを確認したので男の後を付けた。男は数分歩くと近くのバーに入っていった。店名をメモする。少しして、自分自身もそのバーに入った。入ると驚くことにカウンターに、さっきの男が黒服を着て立っている。バーテンダーだなと思った。何やらシェイカーらしき物を振っている。客は数人しか居ない。その男の近くのカウンター席に座った。モスコミュールを頼んだ。名札には稲松と書いている。稲松シンジだと分かった。少しすると稲松は爽やかな笑顔でモスコミュールを机の上に置いた。少し、口に含んだ。爽やかなライムの香りがした。爽やかさと言う点では稲松みたいだなと思った。新条ミツコはこのような人がタイプなんだなと思った。特別身長が高くない人で笑顔が爽やかな人がタイプと想像できた。モスコミュールを半分ほど飲んで店を後にした。

インターネット喫茶で検索して見つけた横浜市内にある別れさせ屋に出向いた。インターネットでTwitter検索をすると彼女の本姓も知れた。別れさせ屋とはカップルや夫婦を意図的に別れさせる仕事だ。その建物はビルの4階にあった。応接室に通されると、ソファーに一人の男が居た。年齢は40前後くらいか。中肉中背だが、びっしりとスーツを着こなしている。

「別れさせ屋の遠井和樹です」

遠井は頭を下げた。

「実は別れさせたい人が居るんです」

ソファーに座り、俺は別れさせたい人や理由を説明した。理由は新条は俺の彼女で俺の親友の稲松と付き合っているので別れさせたいと言った。もちろん全て嘘である。遠井は頷きながら聞いている。しかし、心の中では嘘くさいなと感じているに違いない。

「分かりました。金さえ貰えれば言われたことはします。料金は出来高制です」

それから、遠井の結果報告を聞くまで新条の後を付けることは辞めた。長い期間付けることは気づかれる恐れがある。新条は余り外に出ない。俺と同じように交友関係が少ないのだろうと思った。

二週間後、遠井から結果報告の電話が来た。電話の内容は二人が別れたことだった。気になったので、どうやって別れさせたのか聞いた。

「本当は企業秘密なのですが、有名な方法なので話しましょう」

「お願いします」

「まず、私の女性社員が稲松さんに近づく。今回はバーの客として。時間を掛けて男女の関係を築いていく。女性は稲松とホテル街を歩く。もちろん社員に行為はしないように指示してます。そのシーンを別の社員がカメラで撮る。それを新条さんの部屋のポストに入れる。もちろん手袋をはめてね。別の社員が盗聴器を仕掛けて会話を確認する。そして、二人は喧嘩別れしたこどか分かる。それだけのことです」

「新条ミツコは別れさせ屋に気付いていないですよね」

「こちらもプロです。気づかれないように行動してます。稲松も気づかないでしょう。では、2万円を口座に振り込んでください」

この話を聞いたときは、なるほどと思った。その女性社員もなかなかの者だ。ともあれ二人の中が壊れたならこっちの物だ。あとは最後の行動を起こすのみ。もうすぐ、あの女が手に入る。そう思うと、笑みが零れそうになった。

No.4 偶然の出会い

それから数ヶ月が過ぎた。新条は川崎市に引っ越した。元カレから逃げるためだろうと思った。それに伴って俺も仕事を辞めてアパートを出た。新しい彼氏が出来た気配は無い。どこかで、彼氏と別れた女性は前のことはスパット忘れて新しい人を見つけると聞いたことがある。

5日間飯を抜いた。タイミングを狙って203号室の新条の部屋の前にうつ伏せで倒れた。新条が帰ってくる時間は分かっているので、その時を狙った。案の定、彼女は助けてくれた。部屋に上がり、新条と話した。光に子と書いて光子だと聞いた。岐阜出身だそうだ。俺が生まれた場所に近いなと思った。話しているうちに光子は眠った。手が勝手に動いて光子の胸を揉んだ。

ー俺はこの女の体を手に入れることが出来たー

翌日、光子にどうするのか聞かれたので一緒に居たいことを仄めかした。そこに嘘は無い。爽やかな笑顔を心掛けた。迫真の演技が効いたのか、光子はここに居ていいと言ってくれた。

それから二人の生活が始まった。光子の指示で職を探した。光子を抱くことも出来た。数週間後、横浜の港で告白した。光子が横浜に居た頃によく来ていたのを知っている。承諾するのは想定内だった。これで俺は幸せを掴んだのだ。

No.5 幻想

ふと外に出たいと思い、光子の部屋から外に出た。町中を歩く。子連れの家族らしき人とすれ違った。家族なんて俺とは無縁の存在だなと思った。人の数だけ人生があるんだなと思った。行く場所も無くて帰る場所も無い。こんな人生が終わったって誰も気にしないと思っていた。でも、光子と出会って変わったかもしれない。光子に告白した横浜の港に電車に乗って向かった。夜景を見る。この夜景を見ると幻の光景を見ているようだ。背後に気配を感じて振り向くと背後に光子が居た。

両サイド

「何をしているんだ?」

博也は言った。博也は動揺を悟られないようにした。光子は

「あなたは私と偶然を装って出会った」

と言った。その目には問いただすような迫力があった。光子はどうして真相を知っているんだろうと思った。言葉を発せなくなった博也は逃げるように夜景に目を移した。

「本当の愛ってなんだろうな」

光がキラキラと光る夜景を見ながら博也は呟いた。それは光子よりも夜景に呟いているようだった。

光子は心の中で、博也の言葉である

『帰る場所なんか無い、親も親戚も居ない、行く場所もない』

を思い出した。その瞬間だった。思わず手が動いた。その手は博也の背中に触れていた。その大きな背中を押した。たちまち博也は言葉を発せずに海に落ちた。光子は、その光景が幻だと思った。そうだとしたら博也と過ごした幸せなの日々は幻だったのか。偶然ではなく、必然的だった出会い。それは博也の幻と光子の幻が交差していただけなのか。

二人は出会わなかった方が良かったかもしれない。海に落ちる博也、死にたいと思う光子は幻のように消えていきたいと思った。

〜作者からのメッセージ〜
偶然出会ったと思う女と偶然を装って出会った男の二つの視点で書いた。こういう系統の小説を書いていると、二人が出会った時のシーンを後者の別の視点では出来るだけ短めに説明した。この作品でいうと博也視点から光子に偶然を装って出会ったシーンは短めに書いた。なぜなら新条光子サイドで詳しく書いているからだ。同じシーンが続くと読者は飽きると思ったからだ。要するに二人ともの関わりの無いシーン(自己紹介や経歴など)は詳しく書いた。この話の舞台は実際にある地名にしたが、もちろん全てフィクションである。個人的に、この作品は自信作です。note初投稿から2周年を記念して、よりクオリティーの高い小説を投稿しました。これからもフォローやスキをお願いします。

植田晴人
偽名。長めの小説を書きました。別視点で描く本にハマっています。






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