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ヴィパッサナー瞑想修行を終えて

先月の21日から念願のヴィパッサナーの10日間の瞑想修行コースを京都のダンマバーヌで体験してきた。そこには、僕の人生観を変えるような気づきがあったので忘れないうちに記録したい。

瞬間が快感に変わる時

15年前、沖縄の宜野湾から奄美大島の加計呂麻島を目指したオーバーナイトでのセーリング。あの時ヨットで感じた自然と一体化することでの高揚感は、人間の感覚刺激に対する自然な反応で、感覚さえ研ぎ澄ませることができれば、ただ目を閉じて座っているだけでも感じることができる、ということに体験を持って気づけたこと。これが瞑想修行を通じて感じたいちばん大きな発見だった。

人間というのは結局、他の動物と同様に五感で知覚し、遺伝的アルゴリズムにより処理し、その結果に基づき反応するというシンプルなプロセスを繰り返す生き物だ。その人間の五感を研ぎ澄ませていくことで些細な体験でも豊かなものに感じることができるのかというのは、当然のような話ではあるが、それを体験を通して理解することは目から鱗が落ちるような感覚だった。

そもそも僕がヴィパッサナー瞑想に興味を持ち、独学で実践を始めたのは、入眠障害に陥り、全く眠れないと言う身体の状態を生まれて初めて体験し(それまではベッドに入ってから入眠するまでは1分もかからないくらい睡眠障害とは無縁だった)、人間の身体と心(脳)の結びつきについて真剣に考えるようになったからだった。

その後、脳科学、遺伝子工学、哲学、文化人類学などの本を読むにつれて、ちらほらとヴィパッサナー瞑想法という言葉を目にするようになった。スティーブ・ジョブスやビル・ゲイツのような経営者のみならず、サピエンス全史やホモ・デウスで有名なイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリやインテグラル理論(ティール組織の元となる理論)のケン・ウィルバー(意識研究のアインシュタインと呼ばれている)もという錚々たる学者たちも実践しているヴィパッサナー瞑想とは何かに自然と興味が湧いてきた。

プログラムの体験


コース参加中は、外部との接触は一切禁止(メール、電話、インターネット、手紙全て)なだけではなく、テレビ・雑誌・本のようなメディアへの接触やメモをとることすら禁止されている。プログラムの他の参加者との会話やアイコンタクトも禁止されており、唯一認められているのが指導者への瞑想法に関する質問だ。

食事についても、全て決められたものが支給され、朝6時30分の朝食と昼11時の昼食がメインで午後は5時のティータイムにフルーツが支給されるのみだった。

コース参加のためには、シーラと呼ばれる以下の5つの戒律を厳しく守ることが求められる。僕の場合は、日常的にアルコールを摂取していためコース担当の方から事前にプログラム開始の2週間前から禁酒するように指示されていた。

1. 生き物を殺さない。
2. 盗みを働かない。
3. 一切の性行為を行わない。
4. 嘘をつかない。
5. 酒・麻薬の類を摂らない。

プログラムの基本的なスケジュールは以下の通りで毎日10時間以上ひたすらに瞑想する。コース最初の方では、アーナーパーナと呼ばれる呼吸の観察を行う瞑想法を徹底し、感覚を研ぎ澄ませていく。そして、コースの中盤からヴィパッサナーの本格的な実践が始まる。

<早朝>
午前4時: 起床
午前4時30分~6時30分: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午前6時30分~8時: 朝食と休憩

<午前>
午前8時~9時: ホールにてグループ瞑想
午前9時~11時: ホールまたは自分の部屋で瞑想

午前11時~12時*: 昼食

<午後>
午後12時~1時: 休憩および指導者への質問
午後1時~2時30分: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午後2時30分~3時30分: ホールにてグループ瞑想
午後3時30分~5時: ホールまたは自分の部屋で瞑想

午後5時~6時: ティータイム

<夜間>
午後6時~7時: ホールにてグループ瞑想

午後7時~8時15分: 講話
午後8時15分~9時: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午後9時~9時30分: ホールにて質問
午後9時30分: 就寝

僕は、このコースが始まる1年ほど前から瞑想を日課として取り組んでいたのだが、直近でも1日30分と時間が短かったため、1日10時間以上瞑想するということがイメージできてなかった。実際にやってみると同じ姿勢で座り続けるというのは予想以上に肉体的に過酷な作業だった。

特にコースの中盤からは、1日3回、各1時間のグループ瞑想の時に足を組み替えたり、手足を動かしたりすることが禁止される(厳しい戒律と呼ばれている)。コースは、2日目(新しい環境へのストレスのピーク)と6日目(厳しい戒律のストレスのピーク)が山場だと言われているが、僕の場合は3日目から厳しい戒律を個人的に実践し始めたため、ストレスのピークは4日目に訪れた。

通常でもしんどい体験に輪をかけて苦しくさせたのは、半年間ランニングで溜まりに溜まった足の筋疲労だった。これにより足の痺れが通常の痺れではなく、ピリピリ電気が走るような痛みだったので、これは本当に身体に応えた。

コース4日目に本当に気合だけでなんとか足の痛みをこらえていたときに突然、足がもげて宙に浮かぶような幻覚が見えた。が、その後から足の痛みは不思議と消えていった。おそらくこれは、足の痛みを観察し、とことんその痛みに向き合うことで、嫌悪の反応の連鎖を断ち切ることができたからなのではないかと思う。これがまさに仏陀が体験を通じて教えを説いた意志をもって脳の癖(痛みに不快さを感じ嫌悪が増幅することで痛みの感覚が増強する反応)を修正する作業だったのかもしれない。

この自分の中での意識の変化をきっかけに、どんどん感覚が鋭くなり、身体の中のエネルギーの流れ(微細な感覚)をより日常的に感じることができるようになっていった。瞑想中にただ座っているだけでその微細な感覚を感じられるようになったのは9日目になってからだった。

Day 1:プログラムスタート。
Day 2:プログラムのストレスで疲労が溜まる。
Day 3:厳しい戒律を自分に課し始める。
Day 4:疲労MAX。足がもげて宙に浮いてる幻覚を見る。
Day 5:蕁麻疹が出る。休憩時間に庭のベンチで仰向けになり木漏れ日と空を眺めてる時に微細な感覚を覚える。
Day 6:偏頭痛が出る。疲労の第2ピーク。
Day 7:庭の歩行中に微細な感覚を覚える。身体を休め、完全回復。
Day 8:再び偏頭痛が出る。ティータイムのバナナを食べてる時に微細な感覚を覚える。
Day 9:初めて瞑想中に微細な感覚を覚える。
Day 10:最終日。

これまで感じた微細な感覚

瞑想によりこの微細な感覚を認識できるようになった今、過去を振り返ってみるとこれまで僕が感じた自然の中での高揚感というのはまさにこの微細な感覚だったように思う。これは、科学的にはドーパミンの放出による幸福感と呼ばれるものなのかもしれない。

思えば、この感覚にいちばん最初に気づいたのは、インドから見たヒマラヤ山脈の壮大な景色だったかもしれない。2005年の7月に丸々2日間ヒマラヤ山脈の麓をバスで1日10時間以上走り続けるという過酷な旅をした後に見たヒマラヤ山脈の大自然の景観は僕の五感をかつてないほどに刺激した。その後、沖縄でのセーリング中に自然との一体感を通じて感じたものが今まででいちばん強い体験として身体に刻まれていた。一方で、それ以降は随分この感覚から遠ざかった生きていた。

社会人になりストレスにまみれた生活をする上でどんどん自分の感覚が鈍感になっていってたのかもしれない。社会人になってから長らく原因不明の蕁麻疹に悩み続けていたのだが、それも今思えば根本的な原因はストレスだったのかもしれない。

2005年7月:インドのヒマラヤ山脈の大自然を見た時
2008年5月:沖縄から奄美大島にセーリング中に自然との一体感を感じた時
2021年9月:睡眠障害で寝れない中部屋の中に入ってきた微風を感じた時
2021年9月:横浜でのセーリング中に風を感じた時
2021年10月:ランニングのセカンドウィンドウを感じた時
2022年6月:京都の瞑想センターで瞑想に集中した時

睡眠障害に陥ったことで無視できないストレスの存在の大きさに気づき、それと向き合い、瞑想を実践することで、自分の感覚が磨かれ、以前よりさらに些細なことで微細な感覚を感じられるようになってきている。これにより自分の他の能力の改善も実感できているので、今後も毎日1時間の瞑想は継続したいと思っている。

仏陀の偉大さ、自分の無知さ

今我々がよく耳にするこのヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想と呼ばれることも多い)という瞑想法は、もともと存在していた仏教での瞑想法を仏陀(ゴーアマ・シーダッタ)が再発見して改良したところに起源があると言われている。

仏教では、もともと、「心による行為」を

1. 意識(知覚)
2. 認識(評価・識別)
3. 感覚(快・不快) 
4. 反応(すき->渇望、嫌い->嫌悪)

以上の4つに分類し、苦悩を生み出す、渇望や嫌悪の連鎖を断ち切ることで解脱することが説かれていた。

仏陀の教えのユニークなところは、身体の感覚こそが渇望と嫌悪の始まるところであり、その時点でおそれを消滅させる必要があることに気づいたことだ。そのために、感覚レベルで働きかけて、古くからの反応する癖を強制する必要性を説いた。仏陀自身がその悟りに至るにあたり実践していた瞑想法がヴィパッサーナーだったと言われている。

人間の内面を観察することでそこまで洞察し、苦悩から解放される具体的な方法論を導き出した仏陀の洞察力と分析力はもはや科学者の域に達している。実際に、仏陀のダンマ(自然の法)とアインシュタインが生前に残した「人間も宇宙という全体の中の一部」という全体性の思想は本質的には同じことを言っている。

そんな普遍的な人間の感覚に関する真実を理解することもなく、反応をコントロールする術を知らなかった今までの自分がいかに無知だったかを痛感させられた10日間だった。

人間の真理の普遍性と生きにくい現代


仏陀の時代からヴィパッサナーという瞑想法が今でも普遍的に人に大切な気づきを与えることができるのは、人間という生き物の進化の速度を物語っている。今の我々は、本質的には2500年前と比べて大きく変わっていない。

一方で、社会の環境は目まぐるしく変わってきた。その状態の中で人間はまさに大きな進化のプロセスにいて、そこにより大きなストレスを感じている。高度の発展した情報化社会は、人間に今まで以上に刺激(ストレス)を与え続ける環境を生み出した。情報の存在は無意識でもストレスに繋がる。

また、肉体面でも、人間の身体は長時間同じ姿勢で座り続けるように出来ていない。組織的な環境で言うと、人は組織の指示に従ってではなく、自分で考えて行動している時にドーパミンの放出量も多くなる。

そう考えると、我々が生きる今の時代というものは生きることに欠かせない人間の低次の欲求を満たすことに成功したものの、その代償が小さいくないことが見えてくる。

だからこそ、今の社会環境に即した人間のありようを今を生きる我々として探求し続ける必要があるのではないか。そのためには、人間のポテンシャルを解放するための仕組みを本質的に考える必要があると思う。

資本主義から自然主義へ

人間の渇望をエネルギー源とした資本主義社会における科学技術革命とそれによる生活水準の向上は目覚ましいものがあることは言うまでもない。一方で、行き過ぎた資本主義社会の弊害も随所で顕在化し、SDGsやWell-beingへの流れが加速化している。

人類は果たしてどこに向かうのか。

僕は、今の世の中に必要なのは、利益の追求を最終目的とした資本主義ではなく、持続的な発展を目的とした自然主義がこれからの世の中には必要だと思う。イタリア人起業家のブルネロ・クチネリの人間主義的経営も大変面白い取り組みであるが、僕は「自然主義的経営」を提唱したい。

持続的な発展のために、事業面では利益だけではなく、いかに自然と共生した社会を実現するかということが重要だし、人材開発の面ではフロイト心理学的なリビドー(様々の欲求に変換可能な心的エネルギー)を行動の原点と考えるのではなく、アドラー心理学的な幸福感の最大化こそが重要なのではないかと思う。

Natureでは、「自然との共生をドライブする」というミッションを掲げ、人材開発面ではそれを「人間のポテンシャルを解放する」というビジョンで整理している。人間こそ自然の一部であり、その能力の解放が自然との共生につながるという考えだ。

人間のポテンシャルを解放する上でのテーマは「幸せの追求」だ。そのためには、①「共同体感覚の醸成」と②「貢献感の最大化」が重要になる。共同体感覚の醸成のためには、プロフェッショナルのみではなくパーソナルなメンバー間での繋がりを強め、心理的安全性の高い組織づくりを目指したい。貢献感を最大化すために、会社のパーパスと個人のパーパスの重なりを見つけ、より意義の感じられる仕事に従事できるような環境を整えていきたい。

ヴィパッサナーから得た人間の本質への気づきを次になるNatureの飛躍へ繋げていきたい。

最後に

Natureは次なる成長に向けてまだまだ積極的に採用中なので、我々の自然主義的経営に共感してくれる方はぜひご応募いただきたい。


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