見出し画像

君はぜんぶ忘れてしまうんだろう

先日、娘が2歳になった。2年前のあの日、あんなに小さく弱々しかった生き物がもう2歳だなんて、信じられない。娘は生まれた瞬間、肺気胸でNICUへ送致になり、しばらく母子別離が続いた。その間、夫が2つの病院(産婦人科のある病院にはNICUがなかったのだ)それぞれに通い、娘の様子を教えてくれていたが、どこか他人事のような、現実感のない話を聞いている気がしていた。

先に娘が退院し、同じ病院で数日を過ごすことになったのだけれども、初めてちゃんと抱いたときの小ささは、今でも忘れられない。自分の腹の中にいたのだから、そんなに大きかったら困るのだけれども、それでもあまりに小さくて、驚いた覚えがある。その小ささの割に、泣き声は野太くしゃがれていて、ナースステーションから戻ってくるときには「うちの子だ」とすぐに分かった。その野太い声と、くしゃくしゃの顔を見ながら、本当に可愛くなるのか……?と思っていた。

ところが。
実際に2年過ぎてみて、こんなに可愛い生き物は他にあるのだろうか?いやない、と反語で思ってしまうほど可愛い。甥っ子や友人の子供を見ていて「ああ、かわいいな」と思うことはあったが、可愛さの種類が違う。小さい猫や生まれたての子犬を見るときともまた違う種類の可愛さが、ギュルンとわたしの胸の奥を掴む。もちろんイヤイヤ期で何をするにも「イヤ!」「シナイ!」と騒ぎ手を焼くこともある。でも、それすらも感動的というか、成長の証のように思えて、嬉しささえ覚えるのだ。

夫と3人で歩くとき、「パパ、ママ、ツナグ!」と言って両手でわたしたちの手をつなごうとする表情であったり、寝かしつけをしようとすると「ママ、ネンネ、キモチイイネー!」と笑う声であったり、本当に成長したなと思う。成長をしみじみ実感するというのは、そうでなかった頃との差分を思うということだ。その差分は、時間を共に過ごさないと実感ができない。その時間の経過には、心理的・肉体的な苦労であったり、様々な心理的葛藤がある。それを乗り越えてきたから感じられる愛しさなのだとしたら、もしかしたら自分で産んだ子でなくても、同じように思うのかもしれない。

今朝の娘の寝言は「コンニチハー!」だった。思わず隣で寝ている夫に「聞いた?!」と声をかけてしまうほど明瞭な言葉だった。しかも広く大勢に呼びかけるような、開かれた感じのする言い方だったので、わたしが知ることのない娘の日頃の生活を窺い知ったような気がしたほどだ。

子育ては面白い。こんなにいろんなことが起きて、様々な感情を与えてくれている娘も、いつの日かこんなことがあったなんて、すべて忘れてしまうんだろう。思春期になった娘に「こんなことがあったんだよ」と言ったら、うっとおしがられるかもしれない。それでも今この瞬間、娘が与えてくれる面白さは失われないし、わたしの中に刻まれていく。刻まれた思い出とわたしは生きていける。こんな素晴らしいことは、そうそうないんじゃないか。

そんなことを考えながら娘の2歳を思う日々だ。

サポートいただいた場合は主に娘のミルク代か、猫のエサ代になります!ありがとうございます!