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あなたとわたしのよろけ縞

娘、1歳1ヶ月、だいぶ幼児っぽさが出てきた。大人と同じものを食べられるようになったし、まだ歩きはしないけれど、つかまり立ちと高速ハイハイでどこまでも進む。「あうあう」とか「だぁー」などの喃語しか話せず、「パパ」「ママ」と呼ばれることはないが、どうやらこの人たちは自分に近しい人間だ、というのは認識しているように見える。そしてなんだか「自分の意志」みたいなものを感じることが増えた。

たとえば手につかんだお菓子を「それはだめよ」と取り上げると、泣く。「それはわたしのだ!」と言わんばかりに泣く。こっちとしては彼女が自分のお腹から出てきたときのことをまだよく覚えているので、「えっ!あんなフニャフニャのホニャホニャだった生き物が、自分の意志を主張している!」という感じでたいへん驚く。人間ってすごい。

それに伴って、彼女とわたしの一体感、みたいなものはどんどん失われていっている。彼女は確かにわたしの一部だった。わたしの子宮の中で育ち、栄養を供給され、羊水とともに押し出されてこの世界に登場してきた。でも、それはあくまで彼女の長い人生のうち、10ヶ月というごく短い時期の出来事であって、いつかわたしも忘れていく。

そう思うと、彼女との物理的な距離がどんどん離れていくような気がするし、無意識に自分でもそれを実感しているような気がする。あるとき、娘とふたりでいるときに、彼女のことを「○○ちゃん」ではなく「あなた」と呼んだことがあった。無意識に出た呼び方だったけれど、自分の中でも彼女は「自分とは別の個」になりつつあるのだ、という認識が深まっていっているのかもしれないと感じる。

いまの娘はなんだか父親のほうが好きみたいで、わたしより夫と遊ぶことが多い。それはわたしの夫がよき父親の証明であるような気がして、嬉しくもある。と同時に、娘とシェアしている夫の時間の割合が、娘に偏っているようで少しさみしくもある。わたしは夫が大好きなので、娘との時間に重きが置かれるいまの時代が早く終わるといいな、と思う。

そういう意味でも、わたしの中で娘は着々と別の人間として確立されつつあり、これからもその実感は増していくのだろう。それってすごく面白い。大好きな夫と、その夫との娘という第三の人間と、わたしの3人暮らしが始まるということだ。人間同士ならいつか喧嘩もあるだろうし、過剰に距離が近くなる時期もあるだろう。人間関係というのはそんなものだ。

わたしは「よろけ縞」という模様が好きで、それはぐねぐねと揺れる線でできた縞模様のことなのだけれど、人間関係はこの縞模様に似ている、と思っている。近くなるときもあれば離れるときもあり、でも基本的には同じ方向へ並走している線。わたし自身の人間関係がそうだった。頻繁に会っていた友人と急に疎遠になっても気にしない。いつかまた線が近づく日が来るだろう、と思っているからだし、実際そんな付き合いが多い。

娘との関係も、双方に問題がなければこの線のように長い付き合いになるわけで、近づくときもあれば離れるときもある。うんと近づいたり、離れたりするときもあるだろう。近づきすぎてもよくないし、離れすぎてもそれはそれでさみしい。年齢はかなり離れているけれど、彼女は彼女という個として人生をスタートしているわけで、人間の先輩として導ける部分は導いて、わからないことは彼女からも教えてもらおう。

そう思うと、いまでも楽しい子育ての未来は、とても楽しく興味深いもののように思われる。これが少なくとも10年、20年と続くのか、と思うと、なるたけ長生きしたくなる。長きにわたる人間関係、つかずはなれずでうまくやっていけたらいいなと思うけれど、まずは彼女が「パパ」と「ママ」、どちらを先に発話するかが楽しみだ。

サポートいただいた場合は主に娘のミルク代か、猫のエサ代になります!ありがとうございます!