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僕が会社を辞めた理由。

「社会不安障害かと思われます」


若い医師は淡々とした口調でそう言った。

症状が出始めたのは本社勤務になってからひと月ほど経った頃だった。

郊外の家から都心のオフィスまで2時間弱、
朝の通勤に変調が起き始めた。

最初は些細な変化だった、
電車内が混み合うと若干心拍数が早まったり、
また呼吸が浅くなるような感覚を覚えた。

しかし運良く座席に座れたりすると落ち着いたり、
そのまま何もしなくても元通りになる事も多かった。

その時は「慣れればなんて事はない」と気にも留めなかった。

しかしその些細な変調を我慢しているうちに症状は確実に悪化していった。

満員電車通勤を始めて3ヶ月を経った頃にはまともな通勤が出来なくなっていった。

電車に乗っては動悸や過呼吸の予兆が起きる、
予兆を察しては途中下車をしてベンチに座るの繰り返しになった。

遅刻してはいけないので、自ずと家を出る時間を早めて行った。

「我慢と工夫でどうにかなる」

またしても僕はこの時点で体からのサインを見過ごしてしまう。

この頃にはもう毎朝の通勤は、
体調と遅刻の不安と緊張で、日を追うごとに精神の消耗が大きくなっていた。

なんとか我慢と工夫でやり過ごしてたものの
やはり毎日上手く乗り越え続ける事は難しかった。

ある日の通勤中酷い発作に見舞われ、
途中下車にて休憩をした、
いつもであれば水でも飲んで10〜20分も休んでいれば持ち直すのだが、

その日は体がもう言うことを聞かず1時間以上も動けなかった。

その日、ようやく上司に打ち明ける決断をした。


「ちょっとご相談があるのですが」


上司に時間を割いて貰い、
今までの症状を伝え、
同時にオフピーク通勤のお願いもした。

上司は一通り話を聴いた後
「分かりました、ひとまず医師に診てもらっては如何でしょうか」と言った。

これが僕が最も恐れていた一言だった。

生まれてこの方怪我と病気以外で病院に行った事がなかった。

まず第一にメンタルクリニックの類の病院をどうやって探したら良いのか、
また、どんなことになってしまうのか想像がつかなかった。

しかし「診断書が無い限り対応ができない」との事だった。

これ以上我慢を重ねても何らQOLに改善が起こらない事は自分自身がよく分かっていた。

選択肢は無かった。



その日の帰りの電車内、
iPhoneで無我夢中にメンタルクリニックを検索した。
iPhoneとSafari、その節はありがとう!

余談ではあるが精神疾患系クリニックの口コミレビューは一様にして低めが多い、
色々な状況や医院の特質性を鑑み、
僕は話半分に受け止め読んだ。

運良く時間の融通がきくクリニックを見つけ、
直ぐに予約をし後日診察を受けた。

診察は今まで恐れ慄いていたのがバカらしくなるほど懇切丁寧、かつ速やかに終わった。

問診票を記入して、簡単な心理テストの後、
医師に今までの経緯や症状などを話し、
いくつか質疑応答を重ね採血をするのみであった。

そして今までずっと正体不明であった症状の生みの親に「社会不安障害」と言う名前を貰った。

正直な感想を吐露すれば落胆よりもむしろ「ほっとした」感じであった。

今まで正体不明であった謎の生き物に名前があったのだ。

「そんな名前の生き物だったのか」と安堵したのを覚えている。

振り返ってみれば数ヶ月間、
まるで出自も性別もわからない正体不明のルームメイトと暮らして居たようなものだった。

判ってしまえば付き合い方も探す事ができる、
それこそがその時の僕にとっての何よりの光明であった。

さらに医師は「パニックに陥った際に」と頓服薬も処方してくれた、
軽やかな語り口で「お守りだと思って下さい」とも言ってくれた。優しい!

それと同時に「出来るのであればしっかり休養した後、働き方の再考をお勧めします」とも助言してくれた。

後日、上司に診断の結果を伝えた、
上司からは薬物療法で引き続き今まで通りの勤務が出来ないかと打診された、

少し迷いはしたが、思い切って休職のお願いをした。

数日後の朝の全体ミーティングで自分の病気の事をチームのみんなに話し、それから数日間の引き継ぎを終え休職に入った。

こっからが凄かった。


最初、僕の目論見は割と楽観的であった。
日々の緊張と不安から解放され、
数週間も療養すれば比較的早期に復職できると見込んでいた。

が、そうは問屋が卸してはくれなかった。

休職初日の朝、いつも通り起床してしまう、
しかし行くべきところが無いのだ。

何をしていいのかがわからない、
ルーティンがまるで無いのである。

だが根が楽観的なので
「やる事なんてその内見つかるさ」と、
とりあえずTVをつける、、、、、、、、。

するとどうだ、気づけば夕方なのである。

その上ずっーと見続けていた筈のテレビの内容を一切覚えていない。

さすがの僕も
「これは何かがおかしい」と察した。

とはいえ察しても体が動かないのだ、
そしてその傾向は翌日以降も続くことになる。

一体全体自分の体はどうなってしまったのか、
まるで頭と体がバラバラになってしまっている感覚だ。

自分的には「働いてた時は少しは無理したかな」「我慢が多かったかな」くらいにしか認識していなかった、

が心と体の方はとてつも無く悲鳴を上げていたのだ。

つまり「頭の言うこと」を優先し「心と体の悲鳴」を無視し続けていたことに気付かされたのだ。

そしてその時、
上司との休職の面談の事が頭を過った
「もし薬物療法で仕事を続けていたら、、」と。

そう、あの時の返事は頭からでは無く心の声だったのだ。

それからの約2ヶ月間はまるで廃人であった様に思える、
「思える」と言うのは、
実はその頃の記憶がすっぽり抜け落ちているので何をしていたかあまり覚えていない。

その後調べて分かったのだが
セロトニンが著しく欠乏すると無気力の他、
記憶障害が起こるとの事だった。

参考にして貰いたいので、
友人知人からの情報も加味し、
その時の行動変容を以下に箇条書きにしてみる。

・電話に出られない
・LINE、メールを返せない(多分見てない)
・一日中ぼーっとしている
・会話がおぼつかない(内容が把握できない)
・使う会話フレーズが変わる
・お風呂に入れない
・些細な事が気になる
・布団から出られない日が多い
・予定が覚えられない
・話した事が覚えていられない

と言った感じだったと思う、

これが実に2ヶ月間続いた。


その後徐々に復調しつつも、
人と会ったり話す時は「以前の自分を演じる」と言う事が3〜4ヶ月続いた。

時たま僕の変容を「なんか変わった?」と指摘される事もあったが、
そんな時は出来るだけ平静を装い「そう?」とさりげなくかわしていた。

そうしている内にあっという間に療養期間が長引いた。
その最中、会社との面談では有り難い事に色々な提案を頂いたのだが
“復職の見込みが薄い“との事で退職の勧告を受けた。

様々な事情と感情は入り混じったが即答で退職を決めた。

これが僕が会社を辞めた経緯である。


勢い余って退職を受け入れたもののその後に残された不安と焦りは想像以上のものであった。

しかしこんな僕でも拾う神もあり、
退職の報告をした途端多くの方々にお声がけ頂いた。

また不思議な事に沢山の御縁にも出会った。

有り難い事に周りの人達に恵まれ
お陰様で今ではすっかり復調し、以前と変わらない感じになった。

と自負している。

人は弱くもあるが強いものだ、
一体どっちなんだと自分事ながら困惑している。

そしてなぜ僕がこんな個人的な事を綴ったのかと言いうと、

「みんな体と心のサインを大事にしてね!」
と言う事に尽きる。

情報の共有である。

精神疾患の可能性は誰にでもあり、
また珍しい事では無いと言う事を知っていただきたかった為、赤裸々に筆を走らせた。

日本には五月病という言葉がある。

そんな俗称が広く知れ渡るほどに
目標を見失ったり、やりがいを無くしたり、
先行きが不安になる事は決して珍しく無く、
むしろ良くある事なのだ。

ご自身では無いとしても、友人知人、ご家族から僕と似た様な振る舞いや発言が見られれば

直ぐに休ませるか、専門家や専門医に行かれる事をお勧めする。


なぜなら人は「頑張っちゃうから」だ。

人は「今まで通りにしたい」と言う現状維持バイアスが強く、
そして追い込まれると判断を誤る「視野狭窄」に陥る。
これが本当に茹でガエルの如くしれーっとやって来る。

悩みながらも
「大丈夫」「もう少しだけ」「すぐに慣れる」といった発言が出たなら、
もしくはご自身の頭に思い浮かんだら、直ぐに立ち止まってほしい。

悲しい事を言う様だが
会社の人員、代わりはどうにでもなる、
と言うより、
会社組織はそう言う構造になっているのである。

あなたが潰れても会社は人生の面倒を見てはくれない。



しかし家族や仲間にとってあなたの代わりは居ない。

何故なら家族や仲間にとってあなたは
「機能する人員」ではなく、

「かけがえの無い“意味”」だからである。


我慢と無理はあっという間に心と体を蝕む。

全てをコントロールできるわけでは無いとは思うが、
出来るだけ健やかに、そして楽しんで日々を過ごしてほしい。

こんな僕の経験が何かの参考になれば幸いである。

拙文、長文に最後までお付き合いいただき有難う御座います。

皆様が健やかに過ごせますよう、心より願っております。

ヘーゼル

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