肯定の対義語に「否定」を置けないタイプ

しゃべって、謝って、書いて、しゃべって、謝って、書いて……を繰り返した一日だった。確定申告の狂乱から一夜明け、詰まりに詰まった仕事を手前からどうにか切り崩していった。

以前仕事をした方からご紹介いただき、日本に名だたる某広告企業を訪問した。そこのお仕事を受けることになりそうで、ご挨拶に。建物には何度か来たことあるけれど、個人での仕事は初めて。緊張しながら先方に会ってみると、気さくに話してくださる方で助かった。ぼくも思いついたことをしゃべってみると、良い反応が返ってくる。どうやら顔合わせとしては成功したみたいだ。

ちなみに、“トークの帝王”ことラリー・キングは著書にこう書いている。「帝王だってそうなら、ぼくなんて絶対無理じゃん」と思えて、すこしだけ人付き合いが楽になった言葉だ。

しゃべらないと固く心に決めた相手にはしゃべらせることはできない、ということである。たとえトークの帝王でも、会話の達人でも無理なものは無理なのだ。(中略) あなたも、相手が話してくれなかったからといって、「何か私に問題があったのだろうか?」などと、自分を責める必要はない。別の話し相手を探せばいいだけなのだ。 ──『“トークの帝王” ラリー・キングの伝え方の極意』

とはいえ、初めてお会いする方は例外なく緊張する。ぼくは音声配信をやっているせいか周囲から「人見知りしない」と思われがちなのだが、正直言って全然するし、パーティーとかあっても話しかけるのにビール5杯くらい飲まないと勇気が出ない(というか、それはすでに勇気でなくて感情の麻痺だ)。インタビューはお互いに「聞く/聞かれる」の関係性があるので、気の持ちようが異なる。

なぜ、勇気がないのか。根底にあるのは強めの被害妄想と、高校2年生のクラス替えでそれまでの友達と離れてしまってクラスに馴染めずに“ぼっち”を経験した過去、あとは平たく言うと学歴コンプレックス的なものがあって、「すげーやつは例外なく知識でマウンティングとってくる」みたいな余計な思い込みがあるせいだろう。

最後の感情はいつ生まれたか定かではないんだけど、たぶん昔のどこかにそういう体験があって泣きそうになったんだろう。未だにそれを引きずっているせいか議論らしい議論もできないし、「意見を戦わせる」というのも苦手なままだ。何かの違いを相手に感じた時に「どうしたものかなー」って思いながら、次の言葉を飲み込んでしまう。ぼくはぼく、彼は彼、という感情の線引きをしてしまいがちだ。

(ちなみにこれも、酒による麻痺を経れば、グンとはずみがついてしゃべれるのだけど、良い思い出は全くない。最近もでかい失敗をしたばかりだ。)

だから、ちゃんと「戦える人」を、ぼくはすごく尊敬する。ぼくにはできないことができるひとは、すごいな、とおもう。たぶん、それは自分の自信のなさみたいなものがあるのと、相手に勝ることで優越感を得たりしてしまうのが怖いのだ。勝るということは、ある意味で「相手の弱さ」を否定することとも通じるので、その弱さを価値観から切り捨ててしまいそうな自分が怖い。

それならぼくは、ぼくだけがしっかり強くなることを考えていたいし、できることならみんなを肯定だけしていたいという気持ちがある。ぼくにとって肯定の対義語は「別離」あるいは「不干渉」になっているのだろう。これってぼくが共感できていないからか、あるいは共感しすぎてしまうから、なのか。

ただ、時に否定が必要なことも、わかる。たとえば、恋人に、友人に、あるいは仕事仲間に、伝えるべきこと、戦わせるべきことが、あるはずだ。たくさんの言葉を選びながら、どうにか真意を伝えようとおもうし、そのためにもぼくはもっともっと言葉を獲得したいと願っている。

どうすれば、うまくいくんだろう。八方美人なだけかもしれないけど。

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最後まで、ありがとうございます。また、あした!

すき!
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長谷川賢人

なるべく上等な劣等感日記

誰も劣等感を脱ぎ捨てることはできない。人生はけっして素晴らしいものではないが、どうせ生き続けなければならないのなら、なるべく上等な劣等感を身につけた方がいい。 ──吉行淳之介
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