恋の終わりの終わり

半年かけた某プロジェクトが終わりを迎える。プロジェクトというか、自分で設定した目標数値をとにかく毎月なんとか完遂する、という類のもので、頭の片隅にいつもあってプレッシャーを受けていたらしい。心底、ほっとする。

この半年は、ただひたすらに自分のことを点検しているような日々だった気がする。整備不良をどこかに見つけ出さねばいけないようだった。最初からそんなものなかったとしても、「ぼくには壊れている箇所の整備不良があった」と結論付けたかったのだ。

それにより上手く話が落ち着いたこともあれば、余計にこじらせた部分もなくはない。予想外の外的要因もあった。結果、この作戦はうまくいかなかったのだろう。そんな思いから多少なりとも解放されたのが日記を付け始めた1月の中頃で、それでもどこかで取り憑かれたような心持ちで過ごしていた。

抽象的なことばかり書いているけど、平たくいえば、すでに終わったかつての恋の話をしている。でも、ただ「それ」だけでは片付けられない事情もあったりしたのだが、とにかくそれが終わりを迎えたという日だった。

そんな矢先に、あぁ、そうか、と思える言葉に出会う。メルカリで買った吉行淳之介の『私のうちなる女』というエッセイ集の文章だ。

私の話のなかに「エゴイスチック」という言葉が出てくるが、恋する男女は常にエゴイストである。この点に「恋」と「愛」との大きな違いを私は見るのであるが、その問題は後日に譲るとして、恋する人間はしょっちゅう相手のことばかり考えているようでいて、じつは自己中心から離れられないのである。その人間の思い描く恋人の像というのは、きわめて自分勝手に作り上げたものであって、実際の相手との距離が大きい場合が多い。要するに、自分自身の作り上げた像を、なでたりさすったりして悦に入っているわけだ。

たぶん、ぼくのこの半年あまりは、まさにきわめて自分勝手な像を「なでたりさすったり」していたとしか言いようがなくて、もどかしい。

ぼくはこの傾向に陥りがちなんだろうともおもう。これまでを振り返ると、みんなそこで躓いている気がしてきた。いまの恋人に対しても、何がしかの歪みを感じさせていないかの不安が残る。なるべくならそうはならないようにしたいし、傾向があるということを知って、どうにか自己点検するしかないのか。

そんなふうに、ホッとしたり、ごちゃごちゃ考えたりしながら、昼頃に取材を終えて、午後は新宿のテルマー湯にこもって過ごした。仕事をしたり、サウナに入ったりして、気づくと寝落ちてもいた。ここ最近、睡眠が不規則な上に時間が短い。寝る、ということに罪悪感が大きいせいだ。そういうときはだいたいロクなことを考えない。この日も、また、仕事をしながら力尽きる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?