見出し画像

DSM=劣等コンプレックス事典

今は亡き、野田俊作先生がDSMは劣等コンプレックス事典であるみたいなことを言っていて「なるほどな」と思ったことがある。

アドラー心理学的には「症状」には目的がある。

その目的はライフタスク(仕事、交友、愛)に取り組むことを回避するために、症状を作り出すことで取り組めない理由づくりをすることである。

■ 「仕事しなさい!」。仕事に行きたくてもいけません。なぜなら足が動かないからです。

■ 「なら家で仕事しなさい!」。家で仕事したいけど仕事ができません。なぜなら目がみえないからです。

こういった場合、「解離」を「使って」足を動けなくさせ、目を見えなくさせて、仕事が「できなく」なるのである(*別に「解離」でなくても、なぜなら◯◯、のところにDSMに記載されているもので、どれか好きなものを持ってくれば良い)。

「症状」が理由になっているので「能力」が理由になるよりも、本人の自己価値が脅かされることもない。

こう書くと、何の根拠が、となるが、実は精神医学の「症状」は未だに全て仮説であり、原因不明なのである。

また、関係があるとされる原因(最近は脳に求められることが多い)も相関係数等はほぼ無いに等しいレベルの話になり、データのお蔵入り問題を考えると、それもたまたま出たものかも知れないのである。

しかし、考えてみると、解決方法は、ある意味、実に簡単で、ライフタスクに取り組めば良いだけなのである。

個人的に思うのは、精神症状は、単なる環境(仕事内容や人間関係)との組み合わせの不具合から出てきているような気がしている。

以前、精神病院何とかの会長もインタビューか何かで「たまたまめぐり合わせが悪いのが続いてこうなった」云々と言っていたが、まさにその通りかと。

ただ、よく言われるように「不満よりも不安」ということで、環境の選び直しが難しいのはあるのはあるのだが(環境くじ運・能力くじ運もあるだろうし)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?