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生産性のない人間

元々の自分は生産性のある人間だったと思う。
よく親の言うことを聞いていたし、人のお願いを断ることも少なかった。
人にとって「益」であることを意識して生きていた。

それが去年ごろからどうしてか、人にとって完全に有益な人間になれなくなった。

産まれてから今まで、私という人間は有益性を少しずつ少しずつ失っていた。

親の期待を裏切る機会が増えた。
細かいミスが多く、それが自分だけの問題ではなくなった。少なくとも小さな社会の中で迷惑をかけるようになった。

日常生活で人を幸せにしたくても、私が話すと場が静まり返るようなことが多かった。 

気の所為と思って過ごしていても、「社会的に要らない人間」としてSNSで幾度となく可視化された時に確信した。
もう「人より少し頭の良い子供」ではなくただの「頭の悪い大人」になってしまった。

今まで別に死にたいと思ったことは、振り返ってみると意外となかった。
どちらかと言えば「このまま生産性もなく生きていて大丈夫なんだろうか」という恐怖心で「死ななくてはいけない」という強制力を感じることのほうが多かった。

生きる(生かされる)ためには楽しみがないといけない。
何かを楽しむためには娯楽や医療などに頼らないといけない。
娯楽や医療を動かすためには働かなくてはいけない。

何もしなければ家族の扶養下で生きていける。
ベッドの上で身動きせずただ瞬きをしていれば生きていける。
その生産性の無さは誰かの犠牲の上で成り立っているわけで、
自分にとっては死ぬより耐えがたい。
人に貢献して生きている価値を実感出来ないのは生き地獄だ。
そしてこれがいつまで続くのかわからない不安がある。
働くことは出来ない。でも牛歩かもしれないけど日銭を稼ぐ努力は出来ると思う。
だから今日も何かしら手を動かして作業していると思う。
誰かの役に立つことを祈りながら。

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