問題解決方法としての、小説。

この世界はこんがらがっていて、はて、どうやって立ち向かったものか、と思わされることままある。

そんなときに、根本原因から探って、仮説を立てて、頭からぶつかっていく人もいる。歴史を紐解いて、そこから考察して最適解を出していくやり方。

また、数字でものを考える人たちは、数字から浮かび上がってくるものくみ取って、そこから世界を構築する。

確かあれは、詩人のサラ・ケイだったかと思う。

詩人の彼女は、何か問題に直面したときに、その問題に取り組み、考える手法として、詩を書くらしい。詩を書いてみて、どうにもならないときもあれば、思いもよらずああ、こういういことだったのね、という答えにたどりつくこともあるそうだ。

私は、何か世界を構築したり、理解するとき、どうしても物語を通してでないとできないということが分かった。物語を読む、そして書く、という行為を通して、この世界という混沌に順序や、まとまりを見出す。

(ちなみに、サラ・ケイの『私に娘がいるとしたら』というパフォーマンスは、人類ならばみておくべき!)

閑話休題。

昨日、川端康成の『女であること。』を読んだ。

最近は実践書ばかり読んでいて、小説というものから少し離れていたのだけど、やはり、小説というものは素晴らしい。小説が素晴らしいというよりは、小説のある人生のほうが素晴らしい、といったほうが的確か。なぜ小説のある人生が素晴らしいかというと、小説は、空気や、食べ物ほどでなくても、住居や、洋服と同じくらいに、人間生活には必要なものだからだ。

ちょっと説明させてもらうと。

昨今の起業ブームにみられるように、ここのところの価値観は、即効性のあるビジネス>芸術、というような傾向が見られるように思う。

芸術はあったらいいもの(=ぜいたく品に近いもの)だけど、ビジネスは必要なものだよね、くらいのゆるいコンセンサスがあるような気がするのだ。だが、私は小説はビジネスと同じだと思っている。

素晴らしいビジネスの定義ってなんだろうか、と考えたとき、一番単純な答えは、私は『誰かの問題を解決していること』だと思う。至極単純だ。だから、ビジネスとは問題解決の側面があるのでそれがなくなったら困る人がいる、ということだ。

誰もが発信できるようになって、こんなにフリーなエンタメがある世界になって、あんなに長く、そもそも実践性も、即効性もない、小説になんの意味があるのか?と、物を書くのが好きな私ですら最近思うようになってしまっていた。

何かに困ったら、ノウハウ法を読めばいいし、映画や動画のほうがダイレクトに感覚に訴えてくるから、エンターテイメントとしては優秀なんじゃないか、と。

でも、やはり小説は、また文豪と言われる人たちの小説は、やはり『誰かの問題を解決している』のだ。誰か、が、文豪本人である場合もある。本人が見つめ続けた問題に対する答えとしての小説、という場合もあるし、またその文豪の全く意図しない形で誰かの問題を解決している場合もある。

川端康成の『女であること』。

女、ってなんだ、女を女たらしめるものは何だ、という問いに、女らしくない、と言われ続けてきた私はいずっと思い悩み続けきた。

ものごころがついて、自分の体に女の兆候がでてきたときの、恐怖心を、いまだに覚えている。心とは相反して、どんどん女らしくなる体への嫌悪。そして、その嫌悪しているはずの体を、自分の精神とは切り離して賞賛し、女、として見てくる異性の視線と。そういうものに戸惑った思春期と、20代になってから、まるで解放された力を、どんな敵にも試してみたいスーパーマンのように、女性性をふんだんに使ってみせびらかすように薄い服と、ハイヒールでどこにでも行っていた思い出したくもない孤独な日々と。そして、愛する人を見つけてから、まるで子猫の背中をなでるような気持で、自分の女性性をみつめるようになった精神の変わりようをみるにつけ、女性性というものは自分という、根幹の魂とは全く別のところで発達しているようだ。

あるときは暴力的に押し寄せ、あるときは静かに訪れる隣人のように、様変わりする波のように打つ女性性を、海岸線にいる私たち女はうまくとらえられないが、川端康成はそれを優しく見守る月のように、見事に、美しく、照らし出してくれている。

私にとっては、人生とは、その自身の中で、自分とは関係ないところで暴れる、女性性との闘いでもあるのだ。そして、その在り方や、危うさ、美しさを、川端康成の『女であること』という作品を読んで初めて、そうか、女性性というのは、自分とは離れて存在する、危うくて、刹那的で、美しくて、哀しいもんなんだな、ということに気が付いた。

これが問題解決でなくてなんだろう?そして、これは内省と思考と、物語、という3軸が揃わないと不可能なのだ。この3つの全てが得られるのが、小説というものの存在価値なのだ。

そしてそれは、かならずしもなくたって生きていけるものなんだけども、あるとそれはそれは素晴らしい人生を見せてくれる。私の人生に、私だけで歩いていたのでは気が付かなかった素晴らしい一面を見せてくれる。

ビジネスみたいに、戦って、真正面から何かの問題を解決するような即効性はないかもしれないけど、物語というものがなかったら、私はそもそもこの自分を取り囲んでいる世界というものを理解することができなくなってしまう。

だから、小説は、私には私の人生の問題解決のためにも必要なんだ。

誰かの問題を解決すること、って、私たちが思っているよりいろんな形でできるんだと思う。

いつか私も、あんな作品が書きたいものだ…。



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