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価値相対主義よ、さらば。

33歳になってまで、いったい自分の人生、何がしたいのかよくわからない、という陳腐な理由で、アムステルダムとベルリンに、ふと思い立って14日間一人で行ってきた。

心が疲れて自分探しに出るOLかよ!

まあその通りなんですけどね!

とは言いつつも、旅をして、自分が劇的に変わるとか、そんな安っぽいメロドラマみたいなことが、自分に起こることはないだろう、と思ってたし、実際そこまで変わらなかったんだけれども、やはりケータイほっぽりだして、言葉も世界観も違う場所で毎日息をしていれば、それなりに変化って訪れるもので。

ゆっくりとでも着実に、自分の足元がしっかりしてきている気がする。

やはり旅って、あなどれない。

私は20代は、価値相対主義で生きてきた気がする。

「自分の価値もいいよね、でも相手のものも尊重する。だからいろんな考えがあって、みんないいよね。」

それはもちろんその通りだし、多様化した社会には、それがある意味一番無難で安全な生き方でもあったからだ。

それに、どんな価値でも認められる私、知性高いよね、という自分のイメージに陶酔していた面もある。

だが、最近わかったきたことがある。

信条や、私はこうだ、っていう線引きをすることは確かに、人生の可能性を殺してしまう場合もある。むしろ、制約以外の何物でもない。

でも、わかってきたんだ。制約がある人生のほうが生きやすいってこと

Airbnbで泊まったドイツ人の家は、第一次世界大戦前から残っているものだったらしくて、アーティストの彼ららしい好みの反映された、美しい家だった。古いものを良しとして、歴史のあるものに物語を感じていて、美しくないもの、歴史を破壊するもの、これは受け入れられないというものが徹底的にはっきりしている彼ら。

また、これは直接旅とは関係ないのだけども、最近、倫理的な理由からビーガンを貫いている方と知り合いになった。その人は、普段はファッション関係の仕事をしているが、毛皮には反対だから、そういうものを扱うところとは仕事をしないし、FBでも声高に動物愛護活動をしている。

こういう人たちって、きっと「人生いろんな生き方があって正解だし、なんでもいいよね」という価値相対主義の人からみると、極端、にうつるかもしれない。

でも私はこういう人たちに、強烈に引き付けられた。

他人との、滑らかでぶつからないコミュニケーションというものの代わりに、彼らが手に入れているのは、自分の行動、言葉、信条すべてが一致していることから来る自信や、心の平安や、ぶれないことによる生きやすさ、なんだと思うのだ。彼らの人生には、取り扱い説明書がちゃあんと、存在しているのだ。

多様化した社会だからこそ、ポジションをとる重要性は増してきている。

自分の色をどんどん濃くして、自分という人間は自分でしかいられない、という制約をどんどんかけていくことが、実はこの秩序のない世界をうまく整理して生きていくことができる秘訣なのかもしれない。

私はこんな未来が人類に訪れたらいいと思う、こんな生き方があればいいと思う、というものが少しだけど、ある。それの実現にはやはり、なんでも正解、どんなものでもいいよね、という思考からはそろそろ卒業しなくてはならないんだろうな、という気がしてる。それが例えば、今までの人間関係や、慣れ親しんできたものとの間に波風を立てるようになったとしても。

バランスを欠いてもいい、信条のある生き方をしたい、そう思えた旅だった。

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