見出し画像

空想する力を失くした我ら。

山梨県の河口湖にいってきた。

富士山の麓とあって、朝はマイナスを下回る寒さだったが、東京都内のなんとなくたらっとしゆるい寒さにくらべると、身が引き締まるようで逆に心地よい。

ばかなことに、スマホの充電を忘れてしまったので、行きの電車バスも含めてずっとスマホ断ち状態だった。

気づかされた。

ヒマだからスマホをみるんじゃなくて、スマホばっかみてるから何もない”空虚”な時間をヒマ、だと思ってしまうんだ。そして、”空虚”な時間を潰そうとすると、時間は早く過ぎていくように感じる。”空虚”な時間をそのままにしてあげると、時間はこんなにもたっぷりあるのだ。

当たり前だろ、と思うんだけど、SNSをそんなにやっていない、という自負がある私でもそうだったのだから、現代人のヒマが耐えられない性質というのは、予想以上に色々なところ悪影響を及ぼしているのかもしれない。

手の中にすっぽりおさまるスーパーコンピュータがある、と思ってしまうだけでも、自分の意識はそちらにいってしまう。

もっと大切な情報がいま、この瞬間シェアされていないか?

友達がいま連絡してるんじゃないか?

誰かがいいね!してくれたんじゃないか?

脳にはキャパシティというものがあって、やはりそういうものに意識を割いていると、自分で思考するということに使えるの容量は減ってゆく。そして自分の思考とは、自分の頭の中で、会話を繰り広げることに他ならない。スーパーコンピュータに意識を乗っ取られたままでは、会話なんてできないに決まってる。

テクノロジーは素晴らしい。人間の在り方を変えたし、多くの人間に、これまでななかったような平等や、機会をもたらしたけども、人間や地球に本来備わっているものを向上及び補てんさせるためのツールでしかないことを忘れちゃいけない。

子供のころ、何時間も何時間もそらを見て、空想してたと思うんだ。

あのころ、ああ、いま何かエンタメが手元にあったら…なんて思っただろうか?

空想は子供の特権じゃないはず

仕事や社会のため、という名目のもと、情報収集ばかりに明け暮れた大人が、空想する力を失っただけなのかも。もちろん私も含めてだ。

たまには、手元のスーパーコンピュータばかり見てないで、あなたの頭の中にある、さらに素晴らしくて神秘的なスーパーコンピュータである脳を使ってあげないといけない。

当たり前のことなんだけど、なかなかできないんだよね…これが。

ちょっと朝一でインスピレーションの湧くスピーチをYouTubeで見ようかな、そしてそこに出てくるレコメンド、あ、これもいいな、あと動画一個だけ、もう一個だけ、とやっているうちにあれよあれよという間に自動再生ループ地獄にはまってる自分がいる。

当たり前だ、そういうふうにできてるんだから。だから、そのループから抜け出すのには頭の中に静かな平原を作ってあげないといけない。その平原は、死守しないといけない。自分だけのものだから。

と、霊験あらたかな富士山の姿を見て特にそう思ったのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?