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現在の自分の心身状態について そして家族の健康に”異変”が・・・

5か月前

権力を”圧力”そして「暴力」 ついに『狂暴力』となったら? その1

2か月前

【百年ニュース】1920(大正9)5月15日(土)皇族会議で皇族降下令の施行準則を議論。大正天皇の四皇子が順調に成長し皇位継承リスクは後退。むしろ傍系皇族増加の財政負担が問題化。臣籍降下の具体的ルール案が3月に枢密院可決。利害関係ある皇族より意見頻出し「形勢穏和ならざりし(原敬日記)」。

【百年ニュース】1921(大正10)2月11日(金) 紀元節に3,000名の右翼活動家が明治神宮に集結,「東宮殿下の御婚儀を速やかならしむること」「東宮御外遊延期のこと」を祈願。黒龍会の内田良平や病身の杉浦重剛も姿を見せた。内田は五尺五寸の太刀献上。昨日の婚約続行報道により大きな混乱は起きなかった。

【百年ニュース】1921(大正10)2月10日(木) 宮中某重大事件収束。宮内省「久邇宮良子女王殿下,東宮妃内定の事に関し,世上種々の噂あるやに聞くも,右御決定は何等変更ならせられず」と発表。翌日の紀元節に右翼が明治神宮に多数結集予定で山県も狼狽。中村雄次郎宮内大臣辞任。

【百年ニュース】1921(大正10)2月13日(日) 田中陸相が小田原古稀庵の山県有朋を訪問。山県は栄典拝辞のうえ謹慎する意向。田中は帰京後原敬首相に内容報告。原は宮中某重大事件の善後策を検討,山県に代わり宮中に影響力を及ぼすようになる。まずは3月3日の皇太子裕仁親王の訪欧無事出発が目下の課題。

メーガン妃と小室圭氏と君主制

【百年ニュース】1920(大正9)5月17日(月)午前8時半山県有朋が東京駅を出発し京都へ向かう。27日貞子夫人と木戸孝允墓前訪問。6月7日まで京都に滞在し東京に戻る。前年スペイン風邪で死にかけた山県は、死後の京都別荘「無隣庵」の管理を真剣に考えるようになった。6月に財団法人無鄰菴保存会設立。

【百年ニュース】1920(大正9)4月5日(月)皇太子(のちの昭和天皇:18歳)と婚約内定者の久邇宮良子女王(のちの香淳皇后:17歳)の婚礼が、当初予定されていた1923(大正3)から2年前倒しとなり、1921(大正10)となると伝えられる。→山県有朋の権威が失墜する「宮中某重大事件」へと発展。

あまり皇室には興味ないけど、「駆け落ち婚」なら歴史に残ると思ってた。山縣有朋の宮中某重大事件の逆バージョンみたいだと思って見てた(山縣のWikipedia詳しすぎ。伊藤之雄先生が書いた本のファンだな)。 ただ、もう一波乱あるかもと思い始めた。何かフラグが立ち始めてる気がする。

2年前

【百年ニュース】1921(大正10)2月2日(水) 原敬首相が首相官邸で中村雄次郎宮内大臣と面談,宮中某重大事件の収拾に関わり始める。山県有朋が主導した皇太子裕仁親王と久邇宮良子女王の婚約破棄問題が紛糾。山県はこの問題で窮地に陥るが,5月原により救われ,心酔するようになる。

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【百年ニュース】1920(大正9)6月28日(月)「前宮内大臣子爵波多野敬直をお召しになり、東宮大夫浜尾新・東宮侍従長入江為守と共に午餐の御陪食を仰せ付けられる。またこの日波多野に対し御紋附七宝花瓶一対並びに金員を下賜される。(昭和天皇実録)」波多野は6月18日辞職。