長男が生まれた時、寝不足というものがこんなにも人間性を崩壊させるのかとつくづく思った。子育てなど何もしなかったはずの父が、夫にそれだけはケアしてあげて欲しいと言っていたのも印象的だ。母も崩壊したのだろう。そして今、ただならぬ多忙の中にいる私はそれに近い状態にあるようだ。気をつけよ
結局のところ、地道なことの積み重ねである。小さなことを積み重ねての今という結果である。今あるものに感謝してというのは、そういうことだろう。ないことよりあること。できないことよりできたこと。それを大切にしながらも、登りたい山を見失わない情熱と意志と冷静さ、客観性。自戒をこめて。
そうか、私が今から始めようとしていることは、自分は本物の味方なのだと身をもって知るプロセスなのだ。注目されることもなく、褒められることもなく、でもただ自分の意思で決めたこの約束を、腐らずに続けてやり遂げる、それだけの、でもそんなにも素晴らしい体験なのだと、わかることなのだ。
Delightfulであること、を意識して大切にしたいと思っている、どんな時も。それは無理したり我慢してできるものでは決してなく、できない自分も許し受け入れ、醜い自分から目を背けないことでもある。それでも腐らずに前を向くにはどうしたら良いのか。考えて実践し諦めないことがテーマだ。
私の人生だ。私が好きなこと、やりたいことを選択し、欲張って生きていくのだ。そのために境界線を引くことは自立だ。突き放そうってわけじゃない。感情に流され、いつの間にか期待に応えるべく自ら決定することを忘れかけていた依存という甘美から抜け出し、私の意思で選び直していく、ということだ。
私の居場所はいつもここにある。自分の内側にいつもある。外側に居場所を見つけようとすると、どう思われているかという評価に囚われて自分が不在になりがちだ。寄りかかりすぎずに自分で立っていることは、心地よいコミュニケーションの土台となる。それに必要なのは自分自身との対話だと私は思う。
自分に曇りがないかを確認する時間は、自分とのつながりを感じて安心する。もし曇りに気付いても、そこにジャッジを挟まなければ、それはただ安心なのだ。どんな自分も置いていかない。見捨てない。でも甘やかしすぎない。それは、やはり私自身が成長したいという欲が強いことを知っているから。