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8/1095 多くの人がそうだからと言って、自分がそうとは限らない。

たとえば、「心地の良い時間」と聞くと、どんなイメージが湧くだろうか。

森の中で水のせせらぎを聴きながら、おいしい空気をいっぱいに吸って散歩していたり、ゆったりと温泉につかってのんびりとした時間を過ごしていたり、そんなイメージが私は湧いてくる。

確かに、それは心地いい時間に間違いない。少なくとも私は超心地いい。

心地の良い時間って、時間に余裕があって、のんびりゆったりと過ごせて、自分がやりたいことにじっくり取り組めるような流れだと思っていた。そして実際にそんな時間を数年過ごしてみて、確かに心地悪くはないけれど、心地よくもないことを実感した。

私にとっては、余裕がなくてパッツパツくらいの方が性に合っているらしい。今の仕事がスタートして、パッツパツが数か月経過した今、自分らしいエネルギーの使い方ができていると感じるのだ。

そう、心地いいのだ。

もちろん、仕事の内容とか、同僚に恵まれているとか、環境に依存する理由もかなり大きいのだけれど、時間の流れだけのことを言えば、私にとってはパッツパツの方が充実していて楽しい。魂が喜んでいる感じがするのだ。

「夢を実現したいのなら言葉にして多くの人に伝えるといい」というような言葉を聞いたことあるだろうか?

これも私にとっては正解ではない。

私は本当に実現したいことは誰にも言わず、自分の中だけでひとつひとつ積み重ねながら、「ウヒヒヒヒ…」とほくそ笑んでいることがガッツポーズなのだ。誰にも知られていない極秘ミッションを着実に実行している自分、という世界観が好きなのだ。そしてある日突然、世にお披露目することになるその瞬間が優勝なのだ!!!(おおげさ)

SNSとかで今こんなことに取り組んでいて云云かんぬん…みたいな、いちいちオープンにして行動すると、たいがい三日坊主で終わる。それはおそらく、自意識が大きくなりすぎて、ベクトルが狂うんだろうな。本来自分のためなのに、誰かにアピールすることとか、報告することが目的みたいにすり替わってしまう瞬間があるから。そうなるともう義務みたいになって、できなかった日には「あいつまた三日坊主で終わったぜ、根性ねぇな」と誰かが思っているんじゃないかとかね。もう何のためにやっているのかわからなくなって、やめるみたいな。

でもあれもこれも、さんざん体験した末に気付いたことなのでよいのです。何でもかんでも片っ端からやり切っていったらいいと思うのです。

学習能力がほぼゼロな私だって、ある程度何度か繰り返したら嫌でも学ぶのよね、これは私には合ってないなって。気付くんだよね。そうしたらおのずと自分はこうしようって、楽しくやろうって切り替えられる瞬間が来るから。自分が楽しめる方法でやるのが、心地いいのよ。結局のところ。

誰かに決められたレールが心地よいとは限らなくて、むしろそこから外れて自分だけの心地よさを見つけたときに、自分との信頼が一段深まるような気がするのね。誰が何と言おうと、これが私の心地よさだよね、って。

パッツパツの時間を過ごしている方が心地よいって、あんまりかっこいい感じはしないけれど、でもそれが私にとっての真実だし、身体の感覚が全然違ってエネルギーにあふれているんだから間違いないわけ。それに嘘はつけない。嘘ついて、ゆったりのんびりした生活をつづけたって、私の魂は喜ばないのだもの。それを許して、受け入れて、楽しんでいくしかないのよね。

この日記だって、日々自分一人で「ウヒヒヒヒ…今日も書いたった!」とガッツポーズで眠りにつくのが好きなんだから仕方ない。まぁ、noteに書いている時点で世に公表しているんだから、詰めが甘いっちゃ甘いし、自己顕示欲がないようで旺盛なのは否定しないよね。完全に秘密裏に行動するんだったら、日記帳がベスト!だもの。

いろいろと辻褄が合わないことも、理不尽さがあることも許しながら、楽しくいきたいもんね。

あどまーに!

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