人気の記事一覧

瓦や小石も光を放つ。見性し自己の仏性、生まれつきの本性や天性が顕現した人は見るもの聞くもの全てが光輝き喜びと歓喜に満ちていると言われています。宝石だから輝くのではありません。黄金だから美しいのではないのです。そのような感覚器官で捉えられるものに真実はないという悟りが真実です。

名月蘆花、君自ら看よ。小さな塵一つに無限の神性が宿っていますが自分の目で意識的に見ようとしない限り見えるものではありません。明るい月夜に煌々と照らされる一面の真っ白な葦の花も自分の目で主体的に見ようとしない限りただ美しい風景を見ただけのこと。自己の内面に潜む仏性の眼で見てません。

明珠在掌。輝く宝物は手のひらにある。人が生まれつき誰でも持っている仏性という宝物はいつも手のひらで輝いています。ところが人は幸せの青い鳥を探し求めて世界中を旅しようとします。世界中どこを探してもそんなものはどこにもありません。不満足という土産物を持つて帰るだけなのです。碧巖録。

一株花。ある人が天地は我と同根、万物は我と一体という言葉を褒め称えました。南泉禅師は庭先の花を指さして、今時の人は一輪の花を見てもまるで夢を見るように、きれいだで終わっていると言ったそうです。一輪の花の生命力と自己が生かされている天地の生命力が同じだと納得できる人は人生の達人です

花薬欄。ある僧が雲門和尚に尋ねました。如何なるか是清浄法身?その答えがこれです。芍薬の花咲く植え込みの欄干じゃ。人間の本質である清らかな永遠不滅の仏性とは何かを尋ねたらこのような答えが返ってきたのです。僧は真面目に仏教理論を勉強してきたのでしょう。しかし真実は理論にありません。

乾屎橛。ある僧が雲門禅師に尋ねました。如何なるか是れ仏。糞カキ箆じゃ。人によってはこれは糞が棒状に垂れ下がったものだと言う人もいます。雲門禅師は日日是好日の禅語で有名で、茶掛などにも使用されますが乾屎橛の茶掛などはまず見たことはありません。禅は美しいものだけにあるのではないのです

擾擾忽忽水裏月。ざわざわゆらゆら水面の月。人の心は風に波立つ水面のようにちょっとしたことですぐ動揺し平常心をなかなか保てません。しかし月はいつでも煌々と輝いています。月光は人の内面に輝く仏性の現れです。人の心が波風を起こすのです。何事も没我没頭し、無心に生きたいものです。碧巖録。

山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。美しい自然の風景を見て単純に美しいで終わってしまうようでは、深い内面性の深化が有りません。禅の修行者は血を吐く思いで永遠不滅の仏性を求めて日夜一瞬の隙もなく修行に生きています。その生死をかけた緊迫感が読み取れるでしょうか?碧巖録より。

江国の春風、吹き起こらざるに鷓鴣、深花裏に在りて啼く。春を告げる風が吹く前から植物の陰でひっそりと春を告げて鳴く鳥がいます。機先を制して事を起こす自然の営みは、見事なものです。人はどうでしょうか。今やらなければならないことをいちいち人から指図されずにやっているでしょうか?碧巖録。

葉落つる時は是れ秋、花開く時は是れ春、それぞれ自ずから時節有り。秋は収穫の時でもありもの事が枯れて滅びていく時でもあります。人生の秋を迎えた時に良い時間を過ごすことが出来るかどうかは、それまでの生き方によります。何事も後悔先にたたずと言えるのではないでしょうか。碧巖録より。

空生。須菩提尊者が巖窟の中で坐禅をしていると諸仏が讃嘆して花を空中から雨のように降らしたそうです。尊者が不思議に思って理由を問うと、帝釈天が現れて、尊者が真の般若の智慧を説いたからだと言うのです。尊者は一字も説くことなく我も聞くこと無し。無説無聞、是真の般若なりと言ったそうです。

巻簾。長慶禅師は長い苦修の後、簾を巻き上げた瞬間に忽然大悟したそうです。それまでに坐禅用の座布団を七個壊したそうです。大江健三郎さんは文学修行の時代に広辞苑をニ冊破壊したそうです。何事もここまでやって本当の努力をしたと言えるのではないでしょうか。碧巖録より。

珊瑚樹林日杲杲。深い深い海の底で珊瑚の林が朝日に輝いている。科学的にはあり得なくとも禅の世界では真実です。人が見ようとしないだけなのです。碧巖録(へきがんろく)より。