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草と花の境界線

昨日(1/9)は休日だったので、庭の草取りをした。
本当は他にもやらなきゃならない家事はたくさんあるのだけど、ようやっとメンタルが元気になってきたところなので、今日は洗濯と布団干しと草取りをしただけで〇、ついでに生存以上を目指したのに放置だったnotoを今から書いたら、それでもう◎を付けることにする。

草を雑草にしているのは人間で、草花にもちゃんと名前がある。的なセリフを昔何かで観たか聞いたか読んだかしたが、そんなことは誰もが知っている。
でも、町会でやる市内清掃でも学校行事でも、皆さん当たり前に草と花を選り分けて草を刈る。私はその選別がイマイチ苦手だ。


私が花と思う植物は、多くの人に草と思われることが多い。前の住居でも、あえて抜かずに残していたのに、花咲く直前に大家さんに除草剤を撒かれてしまったことが何度もあった。
今の住居は敷地内に人が入ることはないので、自分の好きなタイミングで、自分の抜きたい植物だけを抜く。でもそうするとトゲトゲした草以外は、みんなそれなりに可愛らしい花に見えてきて、いちいち迷ってしまう。

結構大きな蕾ができてるし、もうこれそのままでもいいのでは…

これなんてよく見たら、小さいけどお隣に植えてあるのと同じ葉っぱの形をしている。何か花が咲くんじゃないかな?とか。

迷った末に↑の葉っぱは残すことにした。
結論。ここは私の家なのだから、草だろうが花だろうが、私がいいと思ったものはそこにあっていいのだ。

草取りをしながら、取り留めもなく考えた。
詩でも歌でも美術品でも、自分がいいと思ったものは、自分の中で大切にしていていい。
そこに世間の評価や価格は関係ない。自分にとって価値があるなら、らくがきだってガラクタだって宝物になる。

そういえば中学の卒業式、担任の先生が生徒一人一人のことを思い出しながら、浮かんだ言葉を書いたという短冊をくれた。
『素直』『誠実』『男気』…と、それぞれ皆に、まぁなるほどと思わせる短冊が配られ。
出席番号が一番最後だった四十数枚目の私の短冊は「………(はぁ?)」とよく分からない言葉だった。それ単体では意味を成さないような。確か担任には「考えたけどこれしか思い浮かばなかった」みたいなことを言われた気がする。
別に期待もしていなかったけど、なんだこれ。と、ちっとも嬉しくなかったし、申し訳ないが感謝の気持ちも全然湧かなかった。50枚近く書けば、そりゃネタも尽きるだろうが、それにしたって…と内心不機嫌にもなった。
でも、30年以上経っても、忘れられずにふと思い出す。当時の自分を思い返せば、間違いなく特徴的だったろう。今になってみると、悪くない気もする。と、私の中で段々価値が上がってきた。
短冊には毛筆で『個性』と書いてあった。

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