見出し画像

ジェーン・スー『おつかれ、今日の私。』【読書9】

7月の疲れている時に読んだ本。7月はとても疲れていてnoteに書けていなかった。

読みやすいので疲れている時におすすめ。

いつもradikoやPodcastでスーさんのラジオを聴いているので、話を聞いて満足してしまっており、本を読んだのはこれがはじめて。ほかには本屋で中野信子さんとの本を立ち読みしたことがあるくらい。

この二十数年で学んだことは、一歩踏み出せば結果的になんとかなる、ということ。

一歩踏み出せばなんとかなるかもよ

右同じ。

踏み出したら「大変な騒動になるかも」と悪い想像していたことも、なんともなかった。なんとかなった。

本当に踏み出してよかった。

嫌いな人と以上に、嫌いな自分と一緒にいるのは、苦痛以外のなにものでもない。

なんのために生きているか

どうせ生きるなら好きな自分と一緒に生きていきたいよね。

疲労はキャパオーバーの証しだ。もう休んでくれと、体が悲鳴を上げている。やりたくないことを続けて、心が過呼吸になっているのだ。

上手に休むのも能力だ

心が過呼吸に…うまい表現だなあ。
やりたくないことを続けて、休むだけでは疲労が取れないことが多々あった。そういう時こそ一歩踏み出す、というか逃げることにしている。

昔は逃げることは良くないことだったけれど、今は逃げるが勝ちな気がする。それでうまくいっているし。逃げるは恥じゃないし結構うまくいく。

失敗を繰り返しながら歳を重ね、私たちは嫌と言うほど組織という歪な生き物のことを学んだ。

不本意な扱いを受けた

組織っていびつだよな。軍隊だよな組織は。上が黒って言ったら黒、白っていったら白なんだよ、たとえ赤くても。よくみんな耐えていると思う。私は「赤じゃないですか?」と思ってしまう。言わないように気をつけるけど。

前向きな気持ちをキープするのにも、いろんな意見が対立するのを見るのにも、親しい人と自分のマナーやモラルが少しずれていることを感じるのにも疲れた。

自分と他者との境界線

ここ数年、友達との価値観の違いにびっくりすることがあったな。全然関係ない他人の軽率な行動にも目くじら立てたり、だれしもが他人をバイキンのように扱うとか。

「なにを考えているのかわからない相手はたいていなにも考えていない」

自分ではどうにもならないこともある


そうかも。おもしろい結論。

会社というのは恐ろしいところで、自分を引っ込めてでも他人の期待に応えようとする人の元へ無理難題が集まってくるようにできている。まるで中州に落ち葉が溜まるかの如く。

好きでもない人に好かれなくていい


最初は役に立てているような気がしていたのに、だんだんと喜びに違和感を持つようになったなら、ちょっと言葉はキツいけれど、それは利用されているからかもしれない。(中略)「やりがい搾取」という言葉がそれにあたる。

「必要とされている」と「利用されている」は別モノだ


社内で必要とされているのか利用されているのかよくわからなかったけれど、喜びに違和感は持った。なんかおかしいぞって。それが答えだったのかも。

桜林直子さんの下記note記事についても書いてあった。

いちばんの呪いは、自分自身でかけているかもしれなくて、それなら自分でとけるはずだよっていう話。

「諦めの呪いを、許可でとく話」桜林直子さんnoteより

最初は親が子供に呪いをかけていたのではないかと思う。「おまえなんかにできるわけがない」「寝言を言うな」とよく親に言われていた気がする。昭和の時代だからね。言葉は違えど同じような呪いはほかの家庭でもなかったですか?呪いというか親の願望というか…。

それがいつしか自分で自分に呪いをかけるようになる。「わたしなんかムリ」「できるわけない」みたいな諦めの呪い。なぞの謙遜。

スーさんもよく言ってるけれど、「わたしなんかが…」って言ってて良いことなんかひとつもない。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?