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【進路報告】現代社会を編集する

僕の記事を読んでくれている人もそうでない人も、お久しぶりです。

私は3月の大学卒業後は、東京にある編集系の会社で働くことになりました。今回私が決断したこの進路は、小さいころ思い描いていた大学生活とは違かった大学生活を振り返り、図書館で目に留まる本をひたすらに読み、自分の心に耳を傾けた上で選択した進路です。

つまりこの進路は今の私にとって、最善の選択だと思っています。

私は編集の道へと進みます。この社会を編集していきます。
私がなぜ編集の道を選んだのか、将来の自分が今の自分を見失わないためにも、ここに記しておきます。

カウンターカルチャーとの出会い

私が過ごした5年間(休学1年を含む)の大学生活は、大学入学前に思い浮かべていた大学生活とはかけ離れていました。

音楽系のサークルに入り、大学を超えて男女の友人に恵まれた、映画「横道世之介」のようなキラキラした大学生活はどこへやら。現実の私は、図書館に独り籠り、宮崎の山奥で半裸で小屋を建て、アメリカを横断していました。

昔思い描いていたキラキラした大学生活ではなかったものの、今振り返ると何か自分で自分の人生を選択している実感のある大学生活でした。

本の世界や海外の世界へと のめり込んでいくうちに、自分の中で感じてきた社会に対するモヤモヤというものにだんだんと気が付くようになっていきました。お金を求めるあまり、食べ物や身体、個性や過程をないがしろにしてしまう商業的な資本主義社会に違和感を持ちつつも、自分はこの社会でどう生きたいか、何が出来るのかを考えては分からずに日々を過ごしていました。

そんなモヤモヤを感じながらも、「カウンターカルチャー」という社会的な流れや文化に対抗する運動が歴史の中にあったということを本で知りました。カウンターカルチャーのことを知ったときは、自分の成し遂げたい何らかの理想に近づく大きい味方を自分の後ろに身に付けたように、腹の底がぞくぞくしたように思います。

周りが就職活動を始める大学3年の時には、疑問が残る資本主義社会と自分のキャリアの関わり方ついて考えながら、どんどんとカウンターカルチャーの世界へのめり込んでいきました。

気がつくとレールの上を歩くことしか頭になかった過去の自分では考えられない休学の道を選んでいました。この社会に対して私が出来る初めての抵抗というのが”休学"だったのかもしれません。

野良に生きる次世代の若者たちと私

休学中は人生の寄り道をしている気持ちで、自分の中にある”アンテナ”がキャッチする”ヒント”を頼りに日本中を旅しては、これまで日本で育ってきた中で培ってきた概念というのを一つ一つ壊すように日本社会を客観的に見ようとしました。

必要なものは買って揃える現代社会に対しては、宮崎の山奥で廃材を使って小屋を建て、釣りをし、欲しいものを買わずに自分で作ることの楽しさを知りました。

自分で検索出来ることしか出会えない有目的的な社会に対しては、数珠繋ぎのようにオススメのお店や土地を教えてもらいながら地元福島から京都まで下道で旅をして、日本の中でもインドや東南アジアのように時間に縛られない偶発的な出会いの可能性にも気付きました。

そして旅の中では、様々な交流がありました。私と同じように社会に対し何かしらの疑問を感じ、自分で新しいコミュニティやお店を作り上げているような方達との交流、昔から田舎暮らしを実践しているご老人(ご老人といってもめちゃくちゃ元気!)の方など、旅先での交流はとても刺激的でした。そして私の親友も、同い年にして山梨の山奥で「半自給自足の新たな暮らし」を提案した場所を据えています。彼に会いに行っては焚火を前に将来の話からくだらない話と酒と一緒に交わしました。

旅先で出会ったカッコいい彼らは、自分の領域を持ち、その道をどんどんと進んでいました。敷かれたレールの道を歩むのではなく、野良猫のように興味があればあばらの道にも進み、実に個性的なキャリアを形成していました。自分でレールを作っていくことに苦労をしながらも自分が生きやすいと思う生活を表現している彼らは、とても魅力的に見えました。
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そういう方に共通しているのは、ロールモデルを自分で開拓していることだと思います。

肩書やレールなど気にせず、自分が生きてきた中で出会ってきたものを自分の中で咀嚼し表現してきたら今こんな状態、みたいな。まさに、アーティストであり作家。(SNS上でちやほやされているアーティストだけがアーティストではない。山の奥で小屋を建てているおじいさんも、味の染みたこんにゃくの煮物をみんなに振る舞う田舎のおばあちゃんだって私からしたら技術を兼ね備えたアーティストなのだ。)

ただ、そんな人たちを魅力的に感じつつも、自分にはできないと感じました。できないというより、自分のする役割ではないなと言った方が近いかもしれません。(休学中は、何をしたらいいか分からず、1日を何もできずに過ごすことも多々ありました。1日のスケジュールをどう過ごすかを決められない自分には、これまでに無いキャリアを開拓していくようなことは難しいのだと痛感。ケセラセラ〜)

彼らは、この社会やこれまで生きてきた中で起きた出来事に対する心の奥のモヤモヤを必死になって形として生み出していました。彼らが表現したそれらは、同じようなモヤモヤを感じている人にしかピンとこないものだと思います。全くそのモヤモヤを感じていない(感じれていない)人に対しては、それはまるで”偏った変なもの”として認識される。

ただ、彼らが表現するものや場所というのは、よりよい新たな社会を作るための「問い」を私たちに投げかけてくれているものだと確信しています。それらは彼らの悩みへの抗いが結晶として現れた表現なのだから。
だからこそ、この結晶が意味するものに気付く人だけに気付くという構造がよりよい良い社会を作る上ではもったいないなと思いました。同じ悩みやモヤモヤを感じている人は同じ社会に生きていればたくさんいるはずなのです。

彼らは食と自然の関連性や自分で必要なものを生産する楽しさと自己実現、平均年収という概念に縛られずにこの現代の資本主義社会の中でも豊かに生きていけるということを、空間なり、お店なりで表現しているのです。

そんな彼らの作り上げた世界を知ったときに、何かに自動的に決定を強制されるのではなく、自分で納得のいく選択をできることに感動したのと同時に、彼らのような人が新しい時代を築いていくんだと感じました。

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そんな彼らから多大なる刺激を受け、憧れを抱きながらも、結局私はその道には進まず、就職という道を選択しました。

決して彼らの生活を否定している訳ではない。いや、むしろネットにあふれる既製品のコピーなどが蔓延る社会で、我が道を進む彼らのことを尊敬している。ただ、彼らの生活は、何かとバランスを取ろうとしてしまう私にとっては極端に感じてしまうのだ。

彼らの生活を自分ができるか想像したときに、これまで描いていた未来や今まで居た社会やコミュニティから遠く離れてしまう気がして、自分が進むべき道ではないと感じました。よく言えば社会性があると言えるのかもしれないけど(そういう暮らしを実践している方が社会性がないと言っている訳ではない)、結局は今まで属していたコミュニティ(家族、友人、知り合い)が遠くなってしまいそうで怖いのだ。

現代社会とカウンターカルチャーの狭間にいる私。

この自分の中の複雑性こそが、私を編集という道へと導いてくれたと思います。

編集者(翻訳者)という自分の役割

現代の商業的な資本主義社会の中で生きていくことにモヤモヤを感じつつも、自分にはカウンターカルチャー的な自分の世界を作り上げる生き方は展開できないと感じた私でしたが、いつものように図書館に籠っていた時に、ある本と出会いました。

影山祐樹さんの「ローカルメディアの仕事術」。

僕は、この本で編集という仕事があることを知りました。(いつもヒントをくれるのは本だ!)
そして、この本を読んだときに、自分の進む道は編集だと強く感じました。

編集とは、異なる二つのものをつなぎ合わせ、これまでにない新たな価値を生み出せるものである。

                  「ローカルメディアの仕事術」より

旅先で出会った彼らや親友のように、私は自分の世界観を形として表現することは難しい。

だけど、現代社会の側面、カウンターカルチャーの側面と、両方の世界を見て理解してきた私には、カウンターカルチャー的な彼らが表現したい(”偏った変なもの”とみられがちな)社会を、(ソクラテスに当たるプラトン)のように翻訳者として現代社会に生きる人に翻訳してあげることができるのではないかと思いました。

新たな時代を作る彼らの生き方にスポットライトを当てる光のような存在。
それが自分にとっての編集だと、またそれが自分の役割だと感じました。

人には人それぞれの役割がある。ただ自分の役割が編集だっただけでなのだ。

余白・過程を編集する

では、現代社会において必要な編集とは何か?
せっかくなので、まだ何も仕事もしたことのない私が考える甘い理想像を皆さんにお届けしよう。

その問いに対する私の答えは余白を作ることではないかなと思います。

今の世の中は、結果や完成が美徳とされていると思います。
いかに便利であるべきか、いかに結果が出ているか。
世界が私たちのそんな欲望に対応する形に編集されてしまっている。

例えば、Amazonでモノを購入し、完成された商品が家の前に届く王様のような状態(過程でどのような工程が行われているかを知らない)だったり、スーパーやお店ではお肉や食材は切り身や調理された状態で提供され、元の食材の状態やどう加工されているかも知らなかったりする。

就職や受験では過程はどうであれ結果が求められる。SNSだってそうで、フォロワーが数字になって評価される。
何か生きづらいんですよね。

私は在学中は、社会と自殺率の関連性について研究してきましたが、この商品やサービスができるまで、届くまでの過程が日常と切り離された乖離状態こそが、個人が社会に関与している自覚を忘れさせ、孤独感を感じてしまっていると考えました。

またテクノロジーが発達し、さらにコロナによって生身の世界に対する比重が下がってきている現代。都会はもちろん、田舎でも生での人との繋がりというのが薄れてきているのは、私は動物としての人間として問題だと思っています。

少しでも人間らしい、人との繋がりを作るために必要なのはは余白の重要性だと思うのです。介入の余地を作ってあげることです。

人々は完成されていないものにこそ、参加することができるのだと思います。
何か完成されていないものに私たち市民も加わり完成させる自治のような体系が必要だと思うのです。例えるなら、BBQの時のような参加している実感が必要なのです。

BBQの準備をしているときの高揚感を思い出して下さい。他の人とも自然とコミュニケーションは生まれるし、こうした方が面白いんじゃないかってアイデアが湧いてきてワクワクしてくる。自分が貢献し、BBQを自分たちで作り上げるあの感じです。料理も絶対お店で食べたほうが綺麗で美味しいはずなのに、なぜだか幸せを感じますよね。

つまりBBQは私に言わせてみればある種、仮設的に余白を持った理想的な自治区が完成されているのです。結果が決まってないからこそ、他人とコミュニケーションを取り、自分が過程に介入し完成させる。BBQの時の人間の行動のようにそこに大事な意味があると思うのです。
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私は休学中にも旅を通して余白、過程の重要性を感じてきました。

旅は余白だらけです。予定はほぼ決まっていない。けど昼のごはんや交通手段という余白を埋めていかなければいけない。
予定がすべて完成された旅も楽で楽しいだろうけど、自分でいろいろ決めていく旅が楽しい。そんな自分で選択していく旅は、自分の人生に参加している感じがして、どんな結果でもなぜか楽しかったって思えるのです。

今の社会には、上記のようなBBQや旅のような余白が必要だと思うのです。
つまり僕が考える理想の編集像は、余白を持った場所、モノ、空間をアーティストと市民と一緒に作れるきっかけを作ることだと思います。

日本には、東日本大震災の時でも理性的で正義感のある行動を取れた素晴らしい自治の意識を持った民族だと思っています。日本人の良さを活かせるような余白づくりというのを探っていきたいなと思います。

おわりに

編集はそんな理想的な社会(余白)を作るためのツールです。

よい社会を作り出すには、その社会に向けて動かす人や問いを持ち続けなければいけません。まだまだこれからも様々なものに触れ、形として残していくにも様々な方との交流が必要です。(まだまだ旅をしなくっちゃ!)

そして大前提としてまずは東京の会社で必死に働いて編集の力を身に付ける必要があります。

そして社会はすぐに良くなるものではなく、じっくりと変化していくことを理解しなければなりません。いくら理想を掲げようとも、社会や自分の生活はすぐに変わらずに、今日明日を生きていかなければなりません。今の社会を受け入れ、バランスを持ちつつ、未来の来るべき時のために今の社会をよく観察して準備しておく必要がありそうです。

未来の生きやすい未来のために必要な準備が私にはたくさんあります。

大成を収めるためには、屈強な橋作りが大事である。

今はまだ無力な私が、働きながら力を付けて世の中に少しずつ起爆剤を落としていけたらなと思っております。(やけどに注意!)

是非今後の進展に期待して頂けたらなと思います。
以上、個人日記のような鈴木駿からの進路報告でした。
では、よい21世紀を!


社会学や文化人類学の力を借りて、世の中に生きづらさを感じている人・自殺したい人を救いたいと考えています。サポートしてくださったお金は、その目標を成し遂げるための勉強の資金にさせていただきます。