命と絆の奇跡:1995年神戸の記憶

新規就農を目指して、4月から研修をスタートさせるハタセンです。今は、北海道の公立学校の教員をしています。
いつもは、教育×○○やマーケティング、農業経営のことなど自分が学んだことをテーマに1500〜2000文字くらいの記事を毎日発信しています。
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。

さて、今日は、いつもと違ったテイストの記事となります。


1995年1月17日午前5時46分 神戸

学級担任時代、あの日の出来事を教え子たちに毎年語り続けていました。
ここ数年、その機会もなく。でも、語り続けることの大切さは今も感じています。そこで、今回の記事は、このことを文字に残しておこうと思います。

当時私は、大学生で、神戸の実家から通学していました。

「おーい!○○!大丈夫か!」私の名をよぶ父親の声。

何度も呼んでくれたんでしょうね。
だんだんと目が覚めてきて、呼ばれていることがわかってきました。

「なんやねん!うるさいなぁ。何が大丈夫やねん!?」
と、しぶしぶ起きあがろうとしたら、
「あれ?体が動かん…」
痛いという感覚はないのですが、身動きが取れないのです。

真っ暗で、まだ目が利かず、まわりがよく見えなかったので、一気に恐怖がわき起こってきたのを覚えています。

目が慣れてくると、わたしのふとんのとなりにあった洋服ダンスが倒れてきていたのでした。

なんとか這いずり出て、父親に無事を伝えました。
心配だったのは母親です。
当時、近所に別に借りていたアパートに家財道具を置いていたことがあり、この日、たまたま母親が荷物整理のために、アパートに泊まって作業をしていたのです。

大慌てで玄関を飛び出し、走って10分ほどのアパートを目指して、走っていきました。
その途中、突然、足をひっかけて転んでしまったのです。
まだ薄暗く、周りもあまり見えない中でしたので、道路が割れていることに気が付いていませんでした。

そう。アスファルトの道路が地震によって割れてしまい、段差ができていたところにつまずいたのです。

その時になって、あらためて周囲を見てみると、電柱が傾いていたり、1階がつぶれて2階が落っこちていたり、日常の街並みとはまったく違って見えました。

どえらいことが起こっているという不安と、母のいたアパートもつぶれているのではないかと心配になり、気が気ではありませんでした。

ようやくたどりついたアパートは、心配していた通り、完全に倒壊していました。2階建てのアパートがガレキの山になっていたのです。

呆然と立ち尽くしていたところに、後から追いついてきた父と兄に促されて、ガレキの山に登り、母のいた部屋を探しました。
とにかくグチャグチャで、ほこりっぽく、咳き込みながらガレキをどかしながら、とにかく懸命に掘り起こしていました。

なかばもう諦めかけていたその時。
「ピピピ・・・」と目覚まし時計の音が鳴り始めました。
私もこの部屋に泊まったことがあったので、なんとなくこの音は覚えていたのです。

「ここや!おかーさーん!」
夢中になって、ガレキの山を掘り進めました。
すると、にょきっと手が出てきました。
スキマをのぞくと、そこには母の顔がありました。
なんと、生きているではありませんか。

大した怪我もなく、意識もはっきりした母を救い出した時には、我が運の良さに、天を仰いで感謝したのを今でも忘れられません。

なぜ、母の命が助かったか。
家財道具は、どれも古く、母の嫁入り道具だった大きくて頑丈な和ダンスとこれまた古くて大きくて頑丈なブラウン管テレビの隙間に寝ていた母。
テレビの上にタンスが倒れかかるような形で家がつぶれ、母はできた隙間の中で、体をつぶされることなく、また息ができる空間もしっかり確保された状態で閉じ込められていたのでした。

幸いにも実家は、壊れることなく、片付ければすぐに住める状態でしたので、避難所ではなく、家で過ごすことができたことも幸運に恵まれていました。

もちろん、ライフラインは完全にストップしていました。
電気は3日間、水道は3週間、ガスは3ヶ月間、復旧までかかりましたから、不便には違いありません。
でも、すぐ近くに小学校があり、水や支援物資を取りに行くことができたのも、これまた不幸中の幸いでした。

やがて、この小学校には、自衛隊の支援部隊が入ったり、全国各地から支援物資が集められるようになったりしました。

飲み水にも食べ物にも困ることはなくなりました。
でも、寒い冬に、おにぎりやお弁当は冷たすぎました。

そんな時に、ボランティアの方々による炊き出しがありました。
あったかい豚汁とおにぎりだったのですが、これが本当に美味しかった。
おそらくこれからの人生においても、これ以上の味に出会うことはないでしょう。

私自身も、余裕ができ始めてからは、大学のボランティア活動に参加し、近隣の小学校で活動したこともありました。

こんな災害だったからこそ感じられた人々の支え合いや絆。

この経験は、私の人生にとって大きな転機となりました。
29年が経ち、教育者としてのキャリアを経て、今では新しいステップへと進んでいます。
しかし、あの日の教訓は今も私の心に残り、新たな挑戦に生きる力を与えてくれています。
私のこの経験は、これからも出会った人々に語り継いでいきたいと思います。


令和6年の年明けは、大きな地震に見舞われ、翌日にも大きな事故が起こりました。
多くの方の人命が奪われ、また今も被害に苦しむ方々がいらっしゃいますことに、深い哀悼の意を捧げますとともに、お見舞い申し上げます。

一日も早く、日常の生活が取り戻され、復興が進むことをお祈り申し上げます。

今日も、最後まで読んでいただいてありがとうございました。

では、また明日。



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