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果物が好き

今日も職場で家から持ってきた黄肉のスイカとカラマンダリンを食べた。それだけが私の昼食だった。別にビーガンでもなく、理由は単純で金欠で果物しか食べるものがなかったからだ。別に苦ではない

窓のないムシムシとした休憩室で、小さな冷蔵庫を占領していたスイカを取り出した。黄色の果肉をスプーンで球状になるようにくり抜き、最後に底に溜まった果汁を盃のように飲み干す。この瞬間に「やっぱ、俺って果物が好きなんだな〜」と痛感した

そんな時にふとなんで果物が好きなんだろうと改めて思った

好きの自己分析

初めて会う人に「なんで果物が好きになったんですか?」とかよく聞かれるが、私も分からない。思い返してみれば物心がついた頃には好きだった。強いて言えば、果物の見た目にハッと言葉には出来ない感銘を受けたと言うべきなのか…?

本当に最古の記憶を辿れば、かご盛りのセロファン越しに見えた丸い新高のような丸くて大きな梨、黒々とした黒ブドウ、オレンジに凄い綺麗だと思った記憶がある。本当に1~2歳の間の話だと思う。

これは今でも変わってない。ただ、その何が良いって言われたら、ここでも上手く答えられないかもしれない。ここからは自分なりに好きに文章でその魅力について書いてみようと思う。

果物の合理的な美しさ

私が果物が好きなのは、まず見た目だ。果物が好きな方は味が好きだという人がほとんどだが、私の中で味という要素は二の次だ。なので稀に果物が好きだと言う人と話すと少しギャップを感じる。

私は果物の外見が一番好きだ。なので果物を食べるために切ってしまう時が非常に惜しくてたまらない。腐らなければ一生飾って起きたいくらいだ。これを表現するならあまり良い意味で使われないが、ルッキズムがいちばん適切な言葉だろう。

ただ、どの果物がいちばん形がいい!とかは無く全ての果物が好きだ。見た目が好きだけど、みんな違ってみんな良い。そうなると外見における果物博愛主義になるのか?ややこしい

その果物へのルッキズムについての無理やり捻り出した考察だが、人の手の加わっていない意味がありげで無さげな形。見慣れてるからなんとも思わないだけで、実に不思議な形をしている。直線が存在しない自然な曲線美というのだろうか。独特の色味やコントラスト、模様。それが面白い。しかも個体や品種、種類によって全て違う。それが余計に面白く、美しい。

私が果物の良さを語る時に使うのだが、美術館の絵画彫刻は見て楽しめる。そして花瓶や花壇の花々は見るだけでなく、四季の移ろいや香りも楽しめる。そして果物は花のように香りもあり、しかも食べれる!味や食感など様々だ

果物はなんて合理的なんだろうと我ながら感心する。美しくもあり、美味しくもあり…例えるなら果物自体が五感を使って楽しめる芸術作品だと私は思う

果物の美しさの根源

ここからは専門外になるが、憶測で考えてみた果物の美しさについてだ。そもそも美しいってなんだろう

美しいに限らず、かわいい、かっこいいなどのふわふわした漠然的な概念はぶっちゃけた話、生きるのにはいらない実際、人間以外がこういう感覚を持ってるかと言われると怪しい。

こういう美しい概念が生じた1つには生存に必要な生きるために食べたい、子孫を残したいみたいな生理的欲求の延長線上かつ、それらの欲求を満たした後に生じる余裕にもあるのかなと。

食べられるものを判断する能力、繁殖において相手を見定める能力、子供などを育てる際の小さいものを愛おしむ気持ちなどが当てはまるだろうか

その中で食物について焦点をあててみる。赤、黄色やオレンジは食欲を促進させる色とされている。それが理由で大手ファーストチェーンなどのロゴにも赤などが多く使われるそうだ。逆に青や紫は食欲を減退させる。

なぜそれらの食欲が湧くのかと言うと、果実の色に由来する説だ。

果実がなんでそうなったかは分からない。植物体がたまたま果実をつけ、特定の色素を合成・蓄積し、たまたま糖などを蓄積したものが、動物などによって積極的に食べられ排泄された種子などによって広がったみたいな感じなだろうであろうか。

これがこの色や形や香りのものは食べられるという潜在的な意識が、この形とか色はなんか分からんけど良いみたいな認識に繋がったのだろうか。

また、古来から果物を実らせる植物が我々の身近なものであるが故に美意識の根源であるのかとも思う。植物はいつの時代も海外のモチーフだけでなく、イスラームのアラベスク、古代ギリシアで生じ世界中に広まった唐草模様などのモチーフとしてよく利用される。植物に限らず身近な生物はある日、突如芽生えた美意識がまず向けられたと考えれば納得も行く。

随分と話が逸れてしまったが、それが私が果物が好きという根源では無いだろうか?と考えた。

食べられることは
必要十分条件

果物の外見などの美しさについて先述したが、それだけだと植物や果実ならなんでも良いことになってしまう。しかし、実がなる植物は好きではあるが何かが違う。そう、食べられるかどうかだ。

美しい果実をならせるものは沢山あるが、食べられるものは意外と少ない。小さい頃、公園のサネカズラやアオキを食べてしまったのは文字通り苦い記憶だ。

その中でも滴るほどの生で齧った時のジューシーさとフレッシュ感、甘い香りや味など視覚以上のものを提供してくれる。味覚は美味しいや不味いだけで判断しがちだが、言葉などでは表せないがより豊かな感覚を与えてくれる。甘みだけでなく、適度な酸味や僅かな渋みさえも味に複雑さを与えてくれる。

更に味だけで言うと甘みは砂糖、酸味は酸味料などでいいじゃないかというとそうでは無い。果物特有の細胞壁が潰れた際の食感や果汁感がたまらないのである。リンゴのようにサクッ、スイカのようにシャリッ!、カキのようにパリッと種類や品種によって異なる。食感も果物を大きく左右する。

これらの構成があってこそ、単なる果実でなく果物というものが成立する。

それぞれが
唯一無二の存在

果物といっても同じ種類でも、同じ木になっても、同じ売り場にあってもそれぞれが唯一無二の存在だ。よく見ると、形も色付きも、模様の入り方もみんな違う

そんな売り場の中でこの形いいなとか、これ美味そうだなとか自分好みのものを吟味するのもまた一興だ。

たまにあるのだが、別に食べたい訳じゃないけど形が良い果物を買ってしまう。左右対称で、その品種らしい形が綺麗に出ていて、鮮度や色付きや模様の具合などが素晴らしいものだ。自分好みジャケ買いという言葉があるが、ビジュ買してしまう。それはしばらく食べずに飾っておく。よくダメにしてしまう時もあるが、朽ちていく様も儚く美しい。

また、この最近になって急速に温暖化が進んでいる。もれなく果物もその影響を受けており、その年や産地によって味が全然違ったりする。果肉の硬度、酸味の量、甘みの強さなどか主な変動する要素だが、本当に年によって違う。それもワインのように、〇〇年の味は過去を見ないほどに最高だったとか

それを天気予報を見て、今年は良さそうだとかを予想するのも楽しい。果物もそういう楽しみ方もあっても良いと思う。

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眠くなったので続きはまたいつか。これで半分くらいです。



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