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一人旅 / 三宅島

自分が撮影した過去の写真を見返すと、恥ずかしさを感じる。
写真というのはスポーツのように日々成長して行くものなので、過去の写真は成長していない甘い自分を見せつけられるからだ。もちろん当時はそれがベストだったのだけど、そのベストの低さに赤面してしまう。引越しのタイミングで押入れから出てきた、卒業アルバムの個人写真を見るような感覚に似ている。

過去の自分がいまの自分と地続きになっているし、いまベストとして撮影している写真も数年後に見返したら赤面しているだろう。だから考えてもあまり意味のないことだと思うのだけど、考えることを止めて完璧だと思い込んだ時点で写真家としては終わる。

できることなら過去の写真をもう一度全て撮り直したい。でもそんなことは不可能なので、その時のベストを尽くすしかない、それが写真だ。

三宅島に向かった。

三宅島は2000年に噴火して全島避難になり、2005年に避難解除している。
僕は2007年に三宅島を一人旅をしている、当時は火山ガスの影響でガスマスクの携行が義務つけられていた。数年前にも仕事で三宅島を訪れているけど、大人数で移動したので旅らしいことは全くできなかった。

島内での移動をバイクにしたかったので八王子からフェリーが出港する竹芝桟橋まで向かう。この旅を最後にバイクを処分する、残念だけど僕にはもうバイクが難しい。

フェリーには2等から特等まで船室がある、一通り乗ったことがあるけど一人旅なら特2等がオススメ。混む時期や曜日に1等や特1等にすると、見知らぬおっさんと個室で相部屋になり気まずい思いをすることがある。
特等がベストだけど、今回は予算的にベストが尽くせなかった。
22:30に竹芝桟橋を出港して、早朝三宅島に到着する。

レンタカー屋さんや宿の人が予約客の送迎に港に来ている、離島の光景だ。
ネコが多い、これも離島の光景だ。ネコだけかと思ったらテンもいた。

“ かっこいいバイクですね。 ”
コンテナから受け取るときに言われたので、良かったら差し上げますよって言ったら笑われた。本気で差し上げるつもりだったんだけど冗談と思われたようだ。
さっそくバイクで島内をめぐる、信号も対向車もほとんどない島の一周は35km。

11年前と同じ場所で撮影してみると、緑が多いことに気づく。
11年前は火山ガスの影響で木は枯れて火山岩の黒い地肌がむき出しだった。
島全体に廃屋や空き家が多くゴーストタウンのようになり、お世辞も活気というものは感じなかった。

三宅島に来た目的は11年前に“もう 頑張れない!!”と壁に書かれていた民家だ。

避難指示が出されたとき、数日で戻れると考えていた島民が大半だったそうだ。
それが4年5ヶ月に及ぶ長期期間の避難生活になった。島の子ども達は全寮制の東京都立秋川高校に避難。大人は別の場所に避難、ペットもまた別の場所に避難。
家族がバラバラに避難して、避難解除されて戻ってくれば島は荒れ果てている。 

日本では大規模な天災が起きると“がんばろう〇〇”という言葉がダッシュで走り出す。この家主はさんざん頑張れと応援されたり、励まされたのだろう。
ガンになってから僕もさんざんこの言葉で励まされたけど“もう頑張れない”ところまでくるのだ。僕は頑張ってという言葉に一番苦しめられた。
この家主に話を伺いたくて会いたかったけど、残念ながら不在だった。

港の近くにある定食屋さんに入る。
三宅島っぽく魚が食べたかったけどハンバーグ定食と焼肉定食の2択しかなかった。レンタル竿で魚を釣ろうかと思ったけどバランス崩して、転落死したら嫌なのでやめておいた。

島にもパチンコ屋がある。僕は普段パチンコなんてやらないのだけど離島や僻地にくると場末感が好きでパチンコ屋に入りたくなる。景品交換が釣り具だったりして面白い。冷やかしは悪いので、1,000円だけ打ってみる。

10連チャンして36,000円になって返ってきた。こんなことならフェリーを特等でくれば良かった。大当たりしてありがたいのだけど、音と光とフォントとデザイン、パチンコ特有の世界観にうんざりした。何かに似ていると思ったけど、SNSやウェブ広告に出てくる課金を前提としてスマホゲームに似ている。

江戸時代、三宅島は流刑の地だった。
縄文時代から三宅島には人が住んでいて、罪人だけが生活したわけでなく一般市民が大半なので、いまの島民が罪人の子孫ってわけじゃないからね。

死刑の次に重い刑罰が流刑だったそうだ。
どんな罪を犯したら流刑になるのか郷土資料館で調べたら、賭博の罪や魚釣りしたために生類憐みの令に違反した罪人など現代ならば軽微な罪だ。

皮肉なものでかつて流刑の地だった島でギャンブルをして、釣りをしに多くの観光客が訪れる、いまの時代に生きていてよかった。

なんでもかんでも昔は良かったっていう懐古主義の人がいるけど、
そんなことはなくて社会は少しづつだけど洗練されて、人は成長して良くなっている。もしも本当にいまが悪いと思うなら良くする努力を人任せではなく、自分で微力でもやればいいのだ。

罪人が内地から文化を持ち込んでくれるおかげで、島が発展することもあったそうだ。

2000年に全島避難をして、現在では島民の7割が帰島している。
きっかけは避難だとしても、結果として全員が島外の文化を触れて島に持ち帰ってたことで、島は発展している。

1983年の噴火で集落が溶岩に襲われて、400軒の家屋がのみ込まれた。
教室から海が見える小学校も溶岩にのみ込まれた、校舎はいまでも残されいる。
噴火した前日に運動会をして当日は振替休日だったために、児童は学校にいなかったそうだ。

当時の女性校長は最後まで学校を守ろうと避難を拒んだそうだ。
311の震災の経験で、地震の後の津波の恐ろしさを知ったけど、地震の後の噴火も恐ろしい。

三宅島では20年に一度の周期で噴火をしているので、4回噴火を経験している高齢の島民もいる。

夕方、山の中腹にある展望台まで上がった、村営牧場の跡地になっていて眺望がよく、夕日が全てを優しく照らす。ここより先はガスの影響で立ち入りが禁止されてる。

感動というのは残念ながら写真では伝わらない。
風が肌に触れる感覚や音、湿度や温度や感触など、感動というのは複合的に五感で感じるものだ。写真を見ただけで知った気になってはいけないし、撮影者は伝えた気になってはいけない。もちろん写真だけでなく、映画や本やテレビの映像やネットの情報だけでもダメだ。知っただけでは体験にならない。

感動や体験は現地に立たなければ味わえない、それを可能にしてくれるのが旅だ。

今回はバイクで来たけど、別にバイクじゃないくてもいい。
飛行機のファーストクラスでも新幹線のグランクラスでもフェリーの特等でも、徒歩でも原付でもなんでもいい。それぞれ体験できる内容が違うだけだ。

三宅島から内地に戻った、東京湾は相変わらず明るくて賑やかで、お台場では花火が上がっていた。出発したときと帰って来たときが同じであることが当たり前のように考えていたけど、それは幸せなことだったりする。

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幡野広志

写真家、元狩猟家、血液がん患者。 お仕事のご相談はこちらに hatanohiroshi0301@gmail.com

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コメント3件

壁に書かれた「もうがんばれない」という言葉が印象的でした。東北地方太平洋沖地震から1年後の被災者の言葉に「いつまでがんばればいいのでしょうか」という言葉に『「がんばろう○○」に羽がはえて中央に飛んでいってしまった』という思いを抱く自分は「思いやりのある自分だ」としてよしとしていたことを再び考えました。
もう 頑張れない!! のお宅に会いに行ってみるところが、幡野さんらしくてすてきだなと思いました。

旅行記を読むのは好きですが、旅はなかなか億劫です。でもまた出かけてみようかな。
幡野さんの笑顔とバイクの写真いい。ツイッターでも見たけど自分も三宅島に入り込んでいく感じがしました。

私も思いました、かっこいいバイクですね(笑
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