メタモンな僕たち。


「メタモンなんよねぇ~」


 久しぶりに会った友人が、お酒を飲む手を止め、しばらくとまでは言えないほどの短い間を空けて、笑いながらこぼした。哀か楽なら哀の、陰か陽なら陰の色を帯びた息は、すなわちそれが少なくとも喜ばしい事態-『結果』ではないということを物語っていた。


「メタモンやったなぁー」


 少し前からSNSで流行しているポケモン診断。ここにいるのは、その結果が揃ってメタモンだった男女である。


 診断結果はこうだ。

「相手に合わせて変化できる柔軟なキミ!でも、自分を見失わないで!」
臨機応変なオールラウンダータイプ。特に、人の経験を吸収して自分のものにするのが得意です。そのため、他人の長所短所を見抜く力も持っています。ただオールラウンダーゆえに、自分ならではの得意分野がないように感じてしまうことも。キミの強みはいわば対応力なので、自信をもっていろんな分野のことに取り組みましょう。オールラウンドにどんな仕事でも活躍できる可能性を秘めています!

 器用貧乏という四字熟語がぴったりな二人は、『嬉しくない』対『嬉しい』が、8:2くらいの比率で混じりあった奇妙な感情に包まれたまま、この結果を受け入れる他なかった。この短い文章の中に三度も出てくる、『オールラウンダー』という励ましにも似せられた言葉は、ひねくれた二人の心に染みるのではなく、刺さったのである。


「イーブイじゃないっていうのが、またね…」

 苦笑交じりの彼女の言葉に、うぅん、と心の中で唸らざるを得なかった。


 メタモンとイーブイ。確かに、この二匹は共通点が多い。しかし、異なる点もまた確実にあるのだ。ひとつ書くならばその違いは、『何者でもない者』と、『まだ何者でもない者』と表現するのが一番妥当であるかのように思える。


 イーブイは進化するのだ。不可逆性の変貌を遂げ、愛くるしい様相はそのままにたくましさを備え、より強いポケモンとして活躍する。
 それに対して、メタモンは変化をするのだ。そしてそれはやがて、またメタモンに戻る。何か別のものに変わりきれることなく、いつまでも自分がメタモンであるという事実から逃れられないまま、メタモンとしてレベル100までを全うするのである。


「『何にでもなれる』が、なんでこんなに違うんだろうね」

「うーん…可能性の拓けた『なんにでもなれる』と、そうでないものの違いというか」

「あー」

「イーブイには未来がある。これから何に進化させようかっていう。メタモンはどこまでいってもメタモンでしかない」

「開けた可能性と、閉じた可能性というかね」

「うんうんうん」


 なぜ、僕たちはイーブイではなくメタモンなんだろう。

 なんとなくわかる。イーブイというのは、例えるなら、子供なのだ。これからなんにでもなれるという可能性、余地、余白。そういったものをたっぷり持った、未来に向かって存在しているのがイーブイなのだ。

 メタモンはそうではない。メタモンは、生まれたときからすでに未来であり、結果なのだ。
 結果だから、どんなポケモンに変身しても最後にはあの姿に戻る。何者にでもなれるということが、何者にもなれないという真逆の冷徹な事実を何より明白に表している。なんとも皮肉なことではないか。


「何にもなれへんまま生きていくんかなあ」

「その不安はよくわかる」

「自分、ドラムあるやん」

「うーん…」

「イーブイみたいに愛されたい。ちやほやされたい」

「うーん…」

 彼女のいつもの戯れ言に反応できないほどに、すっかり考え込んでしまった。ドラムは確かに、自分を形容するうえで、もはや切っても切れない重要な要素のひとつではある。ただしかし、『まだまだ未熟』という考えが頭の中を覆いつくしたとき、得も言われぬ不安に襲われたりする。自分が何者でもなくなる瞬間。それが恐ろしかったりする。


「何者かになりたい」だなんて。
 何者かになれるなんて一握りなのに、そうなれないという悩みなど、ぜいたくだと思われるのかもしれない。けれど、それでも何か、自分だけの色が欲しいと思うのは、決して特異なことではないはずなのだ。
 自分だけの色は無理でも、せめて何かの色を持ちたい。そうすることで、安心できる気がする。きっとどこまでいっても安心しきれることはないと、心のどこかでわかっていながらも、そう思うのだ。


 メタモンに未来はない。よく言えば均整のとれた球体のようで、悪く言えば無個性。なんでもできるがゆえに、なにもできない。人生を生き、いろいろな経験をした結果として、メタモンになってしまった。なにか他のわざを覚えることもない。進化なんて、もっと縁がない。いつまでもこのまま、何者かの「フリ」をしながら生きていくしかないのだろうか。

 何者にでもなれるという余白は、可能性というよりはまるでデッドスペースかのように、いつのまにか、ほんとうにただの空白として、自分の中に残ってしまっているのだ。使い古されたバッテリーのように、100%のパフォーマンスなど程遠く、80%、70%の力で自分を動かしてしまう。動かせてしまうのだ。だから、その残りの2,30%を使うことができない。使い方がわからない。


 いつか、メタモンな自分に対する不満が。「こんなもんじゃない」という怒りが。この紫色の体の中から溢れ出したとき、僕たちは、メタモンではない何かになることができるのかもしれない。

「へんしん」ではなく「しんか」という方法で、変わることができるのかもしれない。

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