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魚河岸まで八里#4

篠崎から一之江まで

 鮮魚街道(なまみち)の旅は写真集を作り力尽きた。だが、道は続いている。今度は鮮魚街道の終点である松戸の納屋河岸から、鮮魚が船で運ばれた日本橋魚河岸を目指し、江戸川、旧江戸川、新川、小名木川、日本橋川沿いを歩く。

    *

 一月八日。再び篠崎駅に降りた。前日は千葉県の新松戸でライブだった。来てくれたお客さんと三咲の立ち飲み屋で〆て帰ったので、やっぱり今日も二日酔いである。バンドやって酒飲んで写真撮ってって最高の正月である。そして、今日もこの後、知人の写真展を観た後に酒を飲むだろう。
 薄暗い新宿線篠崎駅の地下鉄から地上に出ると快晴だった。しかし天気の割に風は冷たくて、もの凄く寒い。それまで暖冬だったので突然受ける天龍源一郎の水平チョップのような厳しい真冬日の連続攻撃にカラダがついていけない。
 今回も江戸川に出ないとスタートラインに着けない感じ。しかし、ここ篠崎駅から江戸川に出るには結構な距離がある。真冬の冷たい風をやるせなく受けながら、どうしようもない住宅地をひたすら歩く。
 この〝どうしようもない住宅地〟というのは、マンションや建売りの戸建てが延々と並ぶ景色のことだ。駅近だし都心へのアクセスがいいので住むにはいいのだろう。効率よく人が住んでいるので私のが望むフォトジェニックな景色ではない。ただそれだけのことである。
 せっかくカメラをぶら下げて歩いているのだから、ただただぶっきらぼうに歩くのではなく、せめて江戸川の河川敷に着くまでに1回くらいはシャッターを切りたい。お腹を空かせた野良犬のように歩くと、足は自然と高速道路のガード下を向いていた。いつまでも篠崎の優良マンション群を縫って歩くより、こっちの方が撮れ高があるかもしれないという嗅覚である。
 鉈で割ったようにズバンと住宅街を分断する首都高速の特異なガード下を歩く。私はたとえ遠回りしてでも撮れ高を優先するのだ。なんちて。

 首都高速7号線のガード下は人工的で巨大な日陰が続く。そこをしばらく歩くと江戸川土手が見えてきた。怪獣墓場のような放置自転車の集積所を最後に日陰から抜け出し、意味不明な時計台のある昭和チックな葬儀場(セレモニーホール)の前を通ると、そこからすんなり土手に登ることができた。見下ろすと土手を挟んで両サイドに篠崎ポニーランドという子どもが乗馬を体験できる施設があった。事前に地図で見たときはなんの施設なのか皆目分からなかったが、ポニーとはそう言うことだったのかと理解した。てっきりクリーニング屋のセントラル工場かと思っていたのだ。ちなみにクリーニング屋のポニーは全国に800店舗もある。
 ポニーランドは閉まっていた。ポニーの家もシャッターが全部下りていて、中を覗くこともできない。

〝サービスは無しよ〟状態だった。

 ポニーランドに気を取られたが、ここで気をつけたいのは江戸川と旧江戸川の分岐点。サイクリングで何度か来たことがある。
 今から一昨年前、流山で行方不明になった少女の遺体がこの分岐点で発見された。風の強い日だったので帽子が飛ばされて川辺まで取りに行ったのだろうか。先日ウチの娘も電車にリンゴジュースのペットボトルを置き忘れたと勘違いしてとっさに電車を降りようとした。子供は優先順位を間違えて突然行動してしまう。
 私の娘と同じ歳くらいの女の子だったのですごく心を痛めた。いつか発見された場所に行って、心の中でお祈りしたいとは思っていたのだ。

 そして私は江戸川ではなくて、旧江戸川沿いの方を歩く。ちなみにここで江戸川沿いを選択するとすぐに東京湾に出てしまう。私は江戸時代に鮮魚を積んで日本橋の魚河岸まで運んだ高瀬舟と同じルートを進みたいので、旧の付いた江戸川を選んだのだ。

 〝ザクより旧ザク、江戸川より旧江戸川〟とはガテム艦長の名言だ。うそ。

 ここから暫くは土手を歩き、90ミリのテレ-エルマリートをつけたり、いやいや50ミリのズマリット-Mに付け替えたり、また90ミリに戻したり、リカちゃんの着せ替え人形のように遊んでいた。
 そうやってしばらく遊びながら歩いていると、いい味出してる古いコンクリートの水門が見えてきた。江戸川水閘門と言うらしい。1943年に出来たというからそりゃ味も出るワケだ。そういや1942って太平洋戦争が舞台のシューティングゲームがカプコンから出てたな。待てよ、1943年といったらまだ太平洋戦争真っ只中じゃないか。

水門作ってる場合かよ!

 この水門は江戸川の水の量を調整したり、塩害対策に海水の塩の量を調節できるそうだ。
 無機質なコンクリートの建造物に古ぼけた窓の冊子があるとほんの少しホッとする。

 ついでに言うとこの水門で自分の位置を正確に知ることができた。過去にこの水門をサイクリングで二度ほど渡ったことがあり、確か人ひとりギリギリの幅の狭い通路を通ったはずだ。橋の少ない江戸川でこの水門の通路を使うと東京から千葉の自宅に帰る時にかなりのショートカットになった記憶がある。土地勘がある場所は私のような方向音痴にとってかなり心強い。
 水門は渡らずにさらに下流に進むとマリーナや造船所が立ち並ぶ。人生でこんなにたくさんのクルーザーを見たのは初めてだ。休日のショッピングモールの駐車場のように船がごった返して停泊している。
 そして、右手に製紙工場、左手に多目的広場が続く。この多目的広場はローラーブレードホッケーのコートがある。初めて見た。試合をしているのか、時折り若者の歓声に混ざり、ローラーブレードとコンクリートが擦れる「グゴゴゴッ」とか「ブリリリリッ」という動物の叫び声のようなブレーキ音が耳に飛び込んでくる。
 公園を過ぎると篠崎ポンプ場というとんでもなく馬鹿デカい施設があった。工事中なのだが、白い壁はもの凄く高く、建屋も窓の無いSFチックの巨大な建造物だった。きっと機動戦士ガンダムに出てくる宇宙戦艦のホワイトベースの実物はこんな感じなんだろう。
 東部交通公園の先の信号で危なく信号無視をしそうになった。子どもたちがここで交通安全を学んでいるんだと自分に言い聞かせ、車の通らない小さな横断歩道を青信号になるまでひたすらに待った。

 そろそろ足も疲れてきたので小さな公園で休むことにした。先客には怪しげな中年女性の二人組がおしゃべりもなく鳩のようにベンチで座っていた。これは私が来たから話すのをやめたのではない。遠くから見ていても話している気配が全く無かったのだ。
 足がパンパンに疲れた私が、休むのを一瞬躊躇するほどの負のオウラチカラが充満していたが、彼女たちに背中を向けてベンチに腰掛け、足をマッサージする。ここで休まないと次にいつ休めるか分からないからだ。身体が温まってきたので首に巻いていたマフラーをカバンにしまった。
 きっちり5分休憩して公園を出た。この5分休憩というのは私の登山経験で培ったものだ。休憩大事。
 立ち去る時も耳をダンボ状態にしてあの二人が話し始めないかチェックしたが、やはり話す気配はなかった。多分、テレパシーで会話しているのだろう。

 この辺から旧江戸川沿いの歩道は工事中になってしまった。すぐにまた歩道を歩けると思ったが、工事中の看板は篠崎街道と並行して1キロ先まで続いていた。
 工事エリアが終わったあたりで屋形船の船着場が並ぶ。冬はやっぱり閑散期なのか、かなりの艇が暇そうにワニのように並んで甲羅干しをしている。船頭さんが飼育員のように一匹一匹ゆっくりと船の手入れをしていた。
 旧江戸川沿いの道はこの辺にして、そろそろ一之江駅に向けて舵を切らなくてはならない。
 今井街道で右折して新中川を斜めに横切る瑞江大橋を渡るつもりだった。目の前をお宮参りの帰りなのか赤ちゃんを連れた家族が仲睦まじく歩いていて、なんだか居心地が悪く今井街道を渡ってから右折してしまった。するとここを分岐に瑞江橋と新今井橋が分かれていたため、糸の切れたゲイラカイトのようにあれよあれよと私は遠い新今井橋を渡る羽目に。一之江駅まで直通の道を遠回りしてしまった。まぁ、それもいいか。
 新今井橋を渡ると街は一変する。頭の上を新大橋通りが走り、マンションやビルがひしめいている。急に視界が狭くなるのだ。
 ぐるりと回って一之江に着いたが知らない土地だし、住宅街の地下鉄の駅を利用した経験があまりない。どの辺から地下鉄一之江駅の入口にフェードインするのかさっぱりわからない。地下鉄だから当然駅舎は地中、不自然にバスのロータリーだけあった。その周辺を探したら都営新宿線の入り口が目立たない祠のように小さく口を開けていた。
 次はいよいよ一之江から新川に入る。

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