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文章リハビリ日記【7/25〜8/2】


この記事は、「好きなことができなくなった」わたしの、文章のリハビリ的日記です。
ここに至る経緯は前回の記事にて。
タイムラグどころではない時間差公開の日記です。

7/25

火曜日。火曜日はなんとなく安心感がある。
そう思うようになったのは、たぶん、フリーランスになってから。
あれだけ長かった一週間がほんとうに早く過ぎ去ってしまうので、いつしか金曜日が待ち遠しい日ではなく、「今週何もしてないじゃん」と戦慄する日になってしまった気がする。
何かを得ると何かを失うのだろうか。
それはそれで悲しいけれど、火曜日とここまで仲良くなれたのなら、まあ意外と悪くないことなのかもしれない。

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7/27

驚くことに、なんと今日は木曜日ではなく水曜日だったことが判明した。
ほんとうに笑える。この日記を再開した月曜日にすでに「火曜日が〜」とか言ってる。すでに狂っていた。

木曜日だと思っていたら水曜日、だなんて、昔なら絶対に絶望していただろうに、今はむしろ正反対で「得したな」と思っているのだから不思議な話である。
人は置かれている環境で、これほどまでに変わるものなのか。
感情や感覚、もはや人格すら環境に干渉されるのかもしれない。
そう思うと、やはり「その人らしさ」とか、その時の気持ちとか思い出とか、全部が全部、危ういバランスで成り立っているのだとも言える。

正直なところ、会社員を辞めてから、曜日感覚が薄くなっているのは否めない。
言い表すなら、平日は「水曜と木曜を行き来している感覚」だ。
そのくせ土日はしっかり休みたがるのだから、困ったものだけれど。

夜、改めて自分はこれからどうなりたいのか、叶えたい目標や夢を羅列してみたところ、自分でも引くほど強欲だったので笑った。

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7/28

珍しく早起きができたので、午前中に出かけることができた(わたしの早起きは普通の人のちょっと寝坊した時間くらい)。
家から一番近い図書館で作業をするためだ。
図書館に行くのは昔から好きだ。でも、わたしの地元の図書館があまりにも素敵すぎて、関東に来てからあれを超える図書館にはまだ出会えたことがない。のちに調べてわかったことだが、わたしの地元の図書館は有名な建築家の人が設計した建物らしい。どうりで。

今の最寄りの図書館にはたくさんの人がいたけれど、基本的に椅子に座ってじっと本を読んでいる人がほとんどだった。
本を探してうろうろしている人はほぼいない。皆、かじりつくように本に向かっていた。
けれど、やはり目の前を通り過ぎる人の気配には敏感なのか、わたしが本を探して棚と棚を行き来して吟味していると、ちらりとこちらに視線をよこす。
その探るような不審がるような視線に、あまり優しい気配は感じ取れず、妙に居心地が悪かった。
周りが静かなこともあいまって、わたしの動作ひとつひとつがうるさくないか気になってしまい、いやに緊張した。

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7/30

地味にじわじわと体力を奪っていくタイプの暑さでした。
相変わらずコロナの感染者数は増え続けていて、今が一番ひどい状況らしい。
といっても、重症化している患者はあまりいないようなので、実際のところこの第七波がどのくらい大変なのかはあまり掴めずにいる。
それでも、この数週間で身近な存在にも感染者がで始めたので、感染拡大の脅威を現実的に感じる。

こんな生活が強いられてもう二年以上も経つし、良い加減うんざりもしてくる。
コロナの厄介なところは、わかりやすい収束が訪れないし、誰も教えてくれないところだ。
この二年の間、ずっと感染爆発していたわけではない、時折感染者数が減って、「これはもう収束するんじゃない?出かけてもいいんじゃない?」という雰囲気が漂うことはあった。
ただあくまでもそれは雰囲気なので、誰も「はい!でかけていいよ!安全だよ!」と言ってくれるわけはなく、自己判断、自己責任。
もしも感染したら……という爆弾を抱えて行動しなくてはいけないので、緩和はあっても自由になった気はしない。

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8/1

今日から8月がはじまるぜ!という張り切り感もないまま、ぬるっと始まった月曜日。
そういえば、月曜日から1日が始まるなんて、なんとなく嬉しい気分ですね。
よく言う、A型が喜ぶってやつかな。

『サニーボーイ』というアニメを何の気なしに再生したところ、結構引き込まれてしまったので、仕事を放って一気見してしまった。
最近いろんな映像作品に触れている気がする。
でもせっかく見ても、文章かなにかにまとめないと学びにはならないのだろうか。
幸か不幸か、アニメの感想に関しては夫と語り合って気が済んでしまったので、文章に書き残しておきたい欲求にはあまり駆られない。
近頃、わたしの思いつきで夫とふたりで映画やアニメを見ることが多い。
最近の夫は、わたしの勧めるもの(作品)をすんなり受け入れてくれる気がする。
いまのところ、「見てよかった、良い作品だった」と二人で納得したのは5作中1作くらいの割合だけれど。

でも、昔は一緒に見た作品が理解できなかったり、つまらなかったりしたら、それなりに罪悪感を覚えたり、「すすめなきゃよかった」とふてくされることが多かったような気がしたけれど、最近は違う。
近頃のわたしたちは、物語に真剣に向き合っているように思う。
だから、思うような結末じゃなかったときは、気がすむまで二人で話し合うのだ。
それがなんだか楽しくて、わたしは人間がふたりで生きていく理由のほんのかけらを、少しだけ手にしたような気分になるのだった。

ちなみに『サニーボーイ』はおもしろかったです。

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8/2

20時頃、車から10キロの米をかついで自宅のある階まであがったら、夫が階段の踊り場にのっそり立っていて心臓が止まるかと思った。
彼は目を丸くして「花火だ」と言った。
わたしは、そうか、さっきから聞こえるこの地響きのような音は花火だったのかと理解した。
どうりで、なんだか町が少しだけ浮き足立ったような雰囲気だったわけだ。
「もう一階上に上がると、ここからでも少しなら見えるんだよ」と教えられて、わたしは夫の後に続く。
花火の上のほんのちょっとだけだけど、確かにこの場所からも見えた。
夜なのにまだまだ暑く、加えて重い米をかついだせいか、わたしはじんわりと汗をかいていて、背中に肌着がはりついていることに気づいた。
それでもなんだかこの時間が終わるのが惜しかったので、それに気づかないふりをした。

家に帰って部屋を暗くすると、窓からも少しだけ花火が見えた。

夏だなあ、こういう瞬間が一番好きだ。
わたしは、言い知れない高揚感と懐かしさと、少しの切なさを覚えた。
最終回みたいだなと思った。
わたしの人生にはたびたび最終回が訪れる。



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