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媼に馬(金魚屋新人賞最終候補作品)

嫗に馬

1

 電灯は黄色く光る。電柱は照らされていて、私はそれを眺めてしまう。コンクリートをこねて、筒状に固めて、地面に突き刺してある。
 昼、妻が持たせてくれた弁当は空だった。驚いた。そもそも渡された時点で、軽いと気付くべきだったが、急いでいたのでわからなかった。仕方なく、会社近所の中華料理屋で昼食を食べていると、店主が私に、
「この前はありがとうございます」
 と声をかけてきた。この店に来るのは初めてだった。注文したラーメンに加え、から揚げをサービスと出された。私は「いらない」と言うのに、店主はから揚げを引き下げない。
 会計でも、
 「お代はいりません。お世話になっていますので」
 と代金を受け取ってくれない。
 気持ちが悪い。私はオフィスに戻ってその話を隣の席の真田にすると、
「そんなこと言われても、知らないよ」
 とはねのけられた。
 電柱から遠ざかると自宅が見えてきた。あの家の水道は、妻の父が引き込んだと聞いた。妻は地方の水道屋の娘で、温かく育てられた。ここの近所に店舗があり、妻は日中、そこへ手伝いに行っている。ドアの前に着くと、鞄から鍵を出して開錠した。いつもながらドアが重い。
 妻は寝ていた。手伝いで疲れたのだろう。私は用意されていた夕食を食べた後、風呂に入った。上がると妻が起きていた。
「ねえ、お昼のお弁当、美味しかったでしょ?」
 妻は何か間違えているらしい。私は帰った際に、空の弁当箱を、そのまま食器棚に戻していた。
「うん、美味しかった」
「何が一番おいしかった?」
 妻は私を見つめている。弁当がある日は、この問いに答えている。前、ハムエッグが一番おいしかったと言うと、「ブロッコリーの和え物が上手くできたのに」と怒られた。しかし今回は弁当が空だ。なんて答えればいいのか、机の上にスーパーのチラシがあり、魚肉ソーセージの画像の上に、特売の文字が並んでいる。
「あれ、魚肉ソーセージ」
 今まで、魚肉ソーセージが弁当に入っていたことはなかった。妻が機嫌を損ねると困る。部屋を荒らされるかもしれない。
「そう、おいしかったでしょ。魚肉ソーセージと、エリンギ混ぜて焼いたのよ。嬉しいわ、私、あれよくできたと思ってたのよ」 
 その晩、私と妻はベットで並んで、手をつない寝た。
「明日もレシピ調べて、珍しいのつくるね」
 嬉しそうだった。
 今日の弁当は弁当は空だった。常夜灯を見て、やはり弁当は空だったと、私は考えた。

 次の日、通勤中に犬に吠えられた。その話を真田にすると、
「俺も今日の朝、吠えられましたよ」
 から、彼は話始める。
「昨日、妻に持たせてもらった弁当に、何も入ってなかったんですよ。何に怒ってんだろって、考えてみると、釣り竿買っちゃったからかなと思って、電話したんですよ。そしたら、やっぱり釣り竿の件で怒ってて、謝った許してくれたんですよ。それで、その日、昼は中華料理屋に入ったんです。会社の近所にある○○軒って店に。そしてら店長が、この前はありがとうございますって、言うんです。でも俺、憶えにないんです。なので、人違いしてませんか?って聞いたら、何をとぼけてるんですかって、そういって、ラーメンセットただで食わしてくれたんです。どうしても、お金受け取ってくれませんでした。俺もう○○軒行きませんよ。気持ち悪いから」
 私は返事をできなかった。
 昼休みになると、自分が次に何をするべきなのか考えた。デスクで妻が持たせてくれた弁当を開けたら、また空だった。真田はここで妻に電話したらしい。廊下に出た。妻に電話をかけてみたが出ない。おそらく手伝いに出ている。彼女は今、図面を眺めている。
 私は社屋を出て歩いて、立ち食いそば屋を目指して進んで、店前に着いたが、昼なので列ができている。並んでいる暇はない。どこか空いている店がないかとうろつくと、○○軒の前に来てしまっていた。中から店主が私を見えている。逃げればいいのに、店の戸を開けて中に入る。店主は私に笑みを向けて、
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。お客様に来ていただけて、嬉しい限りです。日替わり定食をサービスさせてください」
 私はカウンターに座った。
「サービスしていただく理由がないので、自分で払わせてください」
「なにを言ってるんですか、こちらには笹川様に恩がありますよ」
「私、笹川じゃないですよ」
 店主はそれ以降、返事をしなくなった。料理を置くときに、「またお願いしますよ」と一言付けて、バックヤードに逃げて行った。
 私は空腹に任せて、出された定食を食べてしまった。
 店外に出ると、野焼きのにおいがした。オフィス街なのにおかしい。周りを見渡しても、上がる煙は見えない。
 会社に戻り、休憩中に妻に電話をかけたが、出なかった。それが気掛かりで、午後の仕事が手に付かない。
 定時になると、すぐオフィスから出て妻に電話をした。妻は出ない。電車に乗り、帰る最中、高校生のカップルを見た。互いが見つめ合っていた。私と妻も、昔はこんな風に見えていたのだろう。女のほうが男の手を握ったので、私は身体を転回させて、窓の外を見た。煙が上がっていた。野焼きのにおいの正体は、あれらしい。
 自宅に戻ると天津飯等の中華料理が、テーブルに並べてある。入浴を済ませると、妻がリビングで座っている。
 私は髪を拭きながら、妻の横に立った。
「豪華だね、おいしそう」
 私は素直に感想を述べた。
「そうでしょ、ねえ食べてよ」
 私は中華を食べた。珍しく、妻の方からビールをよこした。昔、「酔っぱらったたけるくん好きじゃない、怖いから」と、称したのに、今日は妻から酒を手渡された。俺は飲んだ。飲みすぎるほどに飲んだ。
 翌日、起きたら妻が家の中にいない。電話をかけると、
「ちょっと出てるだけ、すぐ帰るよ」
 と言うとすぐに切られた。
 私はコーヒーを入れて、テレビを見た。落ち着かなかった。
「ねえ、私のコーヒーも入れてよ」
 いつの間にか妻が、俺の背中側に立っていた。持っているのは納豆だった。
「どうしても、食べたかったのよ」
 妻はごはんを盛り、俺の前に納豆と共に置いた。
「今日、お昼のお弁当ないから自分でなんとかしてね」
「わかった」
 俺は食べ終わると支度をして家を出た。

2

 今日も疲れた。デスクワークなのに、脚に疲労があると、自分の太ももを揉んで、自宅の玄関を開けたら知らない靴がある。大きいスニーカーだ。やっぱり最近、色々変だ。今日の昼、〇〇軒では、店主に人格を非難され、出入り禁止を言い渡された。それを真田に相談すると、
「俺も来るなって言われましたよ。なんなんでしょうね、あの店」
 同じ思いをした人がいて、私は安心してしまった。結局今日は、昼を食べ損ね、私は空腹のまま自宅についた。
 リビングには夕食が用意されていない。腹が減っているのに。寝室から声がする。妻が嬌声を出している。背中が寒くなり、思い出すのは風邪の苦しさだった。ドアの前に来て開けるか迷った。去年、風邪をひいたとき、妻は卵粥を作ってくれた。「昔作ってもらったのよ、私の実家の味だよ」と口に、粥を流し込んでくれた。扉が向こうから開いた。陰茎を勃起させている、身体の大きい、白人の男性がいる。
 白人の男性が扉を閉めた。しばらくして服を着た彼が出てきて、何も言わないで、帰っていった。部屋に入ると妻が全裸で床に座っている。寒気がした。実際にウイルスを吸い込んで、風邪の症状が現れているのかもしれない。妻が服を着ない。全裸で俺に寄ってきて、抱きついて陰茎をもんだ。
「まってたのよ、しましょう」
 久々にセックスした。

 次の朝、妻は納豆と味噌汁を食卓に出した。俺は何も言わないで食べて、家を出ると、風邪のような苦しさが消えていると気が付いた。
 昨日の白人の男性は、一体何だったのか。俺はこの先、どうすればいいのか考えながら道を進んでいると、前から○○軒の店主が歩いてきた。Uターンするか迷っていたら、店主が手を挙げた。
「笹川さん、おはようございます。またよろしくお願いします」
 笑顔だった。恐ろしかった。何が何なのかわからない。会社に着いて、真田に、家で見た白人の男性のことを話すか迷っていると、
「井野さん、俺、親が弁護士なんですよ」
 と真田から話しかけてきた。
「それがなんなんだよ」
 真田が笑った。気持ち悪く、にやけていた。
「離婚問題に対応できる、いい弁護士紹介できますよ」
 私は自分が、汗をかいていると気が付いた。

 真田に渡された地図を頼りに来たのは、初めて来る駅だ。野焼きのにおいがする。マップのとおり進んで、街頭の商業ビルの前で高鳴る心拍を抑え、階段を上がると男性が、オフィスの扉の前の植物に水をやっていた。
「飯田弁護士事務所の方ですか?」
 俺はその人に聞いた。
「私が飯田です。お電話頂いた、井野様ですよね、本日はよろしくお願いします」
 飯田先生は、俺を事務所の中へ案内した。奥の部屋入り、俺は大きい椅子に座った。
「どういうご用件で?」
 事前にある程度電話で伝えていたが、もう一度口頭で話した。飯田先生はメモを取りながら聞いた。
「なるほど。その白人の男性を、今まで見たことは?」
 俺は話の中で、見知らぬ男性と表現したはずだ。電話でも、口頭でも。
「いえ、ありません」
「何故、白人の男性は部屋から出てきたのだと思いますか?」
 何故と聞かれて戸惑っていると、弁護士が話を続ける。
「笹川さんは、人種差別についてどう考えていますか?」
 俺は井野だ。弁護士は極めて真面目な顔をしていた。
「あってはならないと考えています」
「なら、あなたは何故、白人の男性が部屋から出てきて、私に相談に来たんですか?矛盾してますよ」
 訳が分からない。扉が開いて入ってきた女性が、お茶を机に置いた。
「でもね、ちょっと分かるんですよ。あなたの言い分も。仮に私も自宅から、白人の男性が出てきたら驚くと思います。だから、パニックになってしまって、ここまできたんでしょう。わかりますよ」
 弁護士は立ち上がった。
「でも、だめですよ人種差別をしたら。私ね、そういうの一番許せないんですよ。今日はお引き取り願っていいですかね」
 俺は何も反論できないで、事務所を去った。帰りに銭湯に寄り、湯に浸かっていると知らない男に、
「明日、東洋で船が浮かぶよ」
 と声をかけられた。自宅に帰ってからもその意味を考えた。ソファーで眠る妻を眺めながら、東洋で船が浮かぶと、頭の中で反芻した。
 この場合の船が浮かぶとは、海に浮かんでいるという意味合いではなく、宙を舞う。海上の空間に浮かぶ大きな船。一体それがなんだっていうんだよ。俺は立ち上がり、冷蔵庫から、昨日の夕食の残り取り出して、レンジで温めていると、妻が俺に寄ってきて声をかける。
「嫗が馬に乗ってる夢を見たよ」
 白人の男性の話を誤魔化そうとしているのか。
「嫗、って何だっけ」
 俺の問いかけに、妻は身体を縮めて困った。
「なんか、昔の言葉。意味は知らないよ」
 妻は冷蔵庫からコーラを取り出して飲んだ。最近、彼女は瓶コーラを好んでいる。
「俺も飲んでいい?」
「瓶はだめ。ペットボトルのやつがあるから、先にそれ飲んで」
 俺はコーラを飲まなかった。嫗に馬。俺には考えることが増えてしまった。

 妻に頼まれた瓶コーラを、近所の酒店で購入した。俺はビールを三本買った。嫗に馬。嫗というのは老婆のことだ。中学か高校の頃、古典の授業で習ったので、本当は知っていた。レジに並ぶと、妻もビールを飲むのではないか、ならもっと買っておこうかと、と振り返ったら、後ろにすでに人が並んでいる。俺は列はそのまま列に並んだ。
 自宅に帰ると妻が、下着姿でソファに座っている。
「おかえりなさい」
 妻は俺からコーラをひったくり、開けようとしたが、蓋を開ける道具がないので台所に移動した。おしりを振って歩いている。左右に揺れる。おしりのゆらゆらに、俺の気持ちもゆらゆらした。コーラ瓶を持つ妻の手を、無理矢理ひっぱって、寝室へ行った。
「コーラ、ちょっとこぼれたよ。たけるが、引っ張るからぁ」  
 俺は妻からコーラを取り上げて、飲み干して、そのまま姦った。
 ベットで横になり、俺は妻の顔を眺めると、白人の男性のことを思い出してしまった。
「ちょっと前、部屋から出てきた、背の高い白人の男ってさ、何だったのかな?」
 妻は名前を舞子という。先祖が舞子をやっていたからそう名を付けられたらしい。
「ちょっと前っていつ?」
 ○○軒で、食事を無料で食わせてくれた時である。
「うーん、一週間とか」
 妻の両目が左上を向いた。
「そんなことなかったと思うけどなあ」
 俺は自分が見た白人の男性を、本当に見たのか疑ってしまった。その後、妻との楽しかった大学時代の思い出を振り返り、眠った。

 翌日、朝早めに家を出て川を眺めた。水面にゴミが浮かんでいた。
 会社に着くと真田が、
「俺、会社に言っておいたから、今日は、いまから例の弁護士事務所行ってくれないか?」
 訳が分からなかったが、部長が俺の元に来て「いいから行ってこい」と指示をした。そのまま電車に乗り、弁護士事務所に着くと、また同じ部屋に通された。
「すごい証拠が見つかりましたよ。白人の男性の素性や、奥様とよく会っているとも分かりました」
 タブレットで動画を見せられた。我が家が写されており、ドア前に白人の男性がいる。やはり記憶の通り、白人の男性は実在したが、時間経過のせいか、妻が寝取られていたという精神的なショックはすくない。自分自身の鈍感さに驚いた。
「先生、俺はどうすればいいでしょう」
 扉が開いて、事務員が入ってきた。お茶を俺と弁護士の前に置いた。事務員は一礼して扉から去る。
「でも、許し合いましょう。争いごとは避けましょう」
 弁護士が話し始めた。こういう、小さい揉め事が戦争を始めている。あなたは妻と白人の男性を訴えるといことは、戦争を牽引したということになる。訴えるとまずい、戦争は良くない。戦争をすると、悲しい気持ちになる人が大勢現れる。よしたほうがいい。
 俺は事務所を出た後に、会社へ電話をかけた。今日は休んで、明日来てと部長が言ったので、近隣のネットカフェに入って時間を潰して、いい時間になると出て家を目指した。
 自宅に帰ると、妻がリビングにいない。俺はまた白人の男性がいるのではと不安になった。靴を脱ぐと廊下から階段を駆け上がり、寝室の扉の前に来た。するとドアが開いて、妻が出てきた。服や、腕を血で染めている。
「たける、どうしよう。叩いちゃった」
 部屋に入ると、血の付いたコーラ瓶が落ちていた。
「どうしよう、私、どうすればいいのかな」
 俺は返事をしないでいると、妻が俺に縋って泣きだした。
「隠そう」
 俺はそう言って、死体にビニールを被して、車に載せた。驚くほどに落ち着いていた。何度も同じことをしたみたいだった。妻は後部座席で震えている。俺がなんとかしなくては。俺が。俺が、俺が。
 山道を進む車は軽自動車だ。俺は普段車に乗らないので、妻が運転しやすい、小さい車を選んだ。山道でも役に立ち、きついカーブをぐんぐん進める。
「ねえ、パトカーのサイレン聞こえない?」
 助手席に座る妻が言う。耳を澄ましたが、俺には聞こえなかった。
「何も聞こえないよ」
 妻が身体を丸めて泣き出した。俺は車を走らせながら、明日から何をすればいいのか考えていた。<了>

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