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【短編】変わらないもの

「お隣さんからねぇ、真鯛をいただいたとよ。真由、お昼ご飯はなん食べたいね?」
 母が台所から顔を出した。かじりついていたパソコンから顔を上げた私は、
「だし茶漬け!」
 と、ちいさな子どものように元気いっぱいに返事をした。

 佐賀県東松浦郡、玄海町。ここが私の生まれ故郷だ。そして大学四回生の十一月現在、鋭意執筆中である卒業論文の舞台にもなっている。
 うちは兼業農家だ。知る人ぞ知る「浜野浦の棚田」の一角に田んぼを数枚借りて、稲作を行っている。
 福岡の大学に進学したときから、卒論は玄海の棚田について書くことを決めていた。だって私は、こんなにも美しい景色を他に知らない。田植えや稲刈りを手伝うとき、痺れた腰をぐっと反らすと、青い潮風が鼻腔に飛び込んでくるのだ。そうして誘われるように周囲を見渡すと、緩やかに段を刻む棚田、その奥に広がる青い海の、自然が育む壮麗な光景が目に焼き付いて離れなくなる。
 私はこの美しい光景を、自分の子どもや孫にも見せたい。そのために、保全活動を行っている組合のおじさんたちや農家の人々に話を聞いて、データを集めて論文を書いているのだ。お茶の間のテーブルの上は、パソコンの他にも走り書きのメモやノート、図書館や民俗資料館から借りた本であふれ返っている。
「茶漬け? 珍しかねぇ」
 アンタお刺身のほうが好きじゃない、と母は不思議そうに首を傾げた。
「んー、お刺身も好きやけど、今日は少し冷えるけんね。あったまりたいなぁって」
「ああ、そうね。じゃあ、アラも使えるし、お茶漬けにしちゃおうかね」
「私も作るの手伝うよ」
 私は膝をついた。母の表情がほころんだ。
「ありがとう。じゃあ机の上片付けちゃってちょうだい。母さん魚捌きよくけん」
「はぁい」
 ディスプレイにいくつも開いていたファイルを閉じて、パソコンの電源を落とした。

 ミネラルたっぷりの浜野浦の棚田米と、脂がのった仮屋湾の真鯛。この組み合わせは最強だと思う。いつもなら真鯛はお刺身でいただくのだけど、今日はアラからだしを取って、お茶漬けにする。
 捌いた鯛の柵に、下処理としてまず塩を塗りこむ。こうして二十分ほど置くことで魚の臭みが取れて、旨味がぎゅっと凝縮されるのだ。これをするのとしないのとでは、だしをかけたときの味や舌触りがずいぶん違う。
「前は料理なんてしよらんかったんに、手伝うなんて珍しかね。あっちでは自炊しよるの?」
 母が水に浸けておいた昆布でだしを取りながら尋ねた。沸騰する前に昆布を取り出し、血やわたを綺麗に流した鯛のアラを鍋に入れる。そして弱火で十分ほど煮出す。
 私は母の隣に立って、薬味のねぎを切りながら笑った。
「さすがに四年も一人暮らししとったらね。簡単なのだけど。実はこれも、スーパーのお刺身と顆粒だしで作ったことあるんよ」
「そうなん」
「美味しかったけど、こっちの真鯛食べて育ってきたけん、なんか違ったんよねぇ」
「そりゃあそうよ。仮屋湾の真鯛だもの」
 玄界灘の冷たく荒々しい海流にもまれて育ち、春になると温暖な内海の仮屋湾に辿り着く。そのため身がしまり、脂がのって美味い魚が出来上がるのだ。
 そして仮屋湾は真鯛だけではない。ブリやカンパチ、マサキなどの多くの魚が獲れる。ブランド化して全国に売り出しているのは養殖真鯛がメインだけど、牡蠣も取り扱っているのだ。
「ん、そろそろよかね」
 鍋からアラを取り出し、可食部の身をほぐす。ここも美味しく食べられるところなのだ。あとはだし汁を漉して薄口醤油で味を整えたら、おだしは完成だ。
 母がおだしを作る傍ら、私は真鯛の柵を冷蔵庫から取り出し、水道水で塩を洗い流した。水気を拭きとり、薄く切っていく。身が柔らかいので、生魚の調理はこれが難しい。でも薄く切ったほうが、おだしが染みて美味しくなる。
「そういえばお父さんは?」
「組合の人と飲み会」
「こんな昼から? 相変わらずやね」
「お酒の量は前よりも減ったけどねぇ」
 飲み会なら、帰ってきてから食べるだろう。夕方くらいになるかしら。父のぶんは別に分けておこう。
 どんぶりに二人分のご飯をよそって、透き通る切り身と、アラからほぐし取った身を乗せる。おだしをゆっくりと回しかけて、上に薬味を乗せれば完成だ。
「いいにおい!」
「さ、あったかいうちに食べようかね」
 母が昨日の残り物の筑前煮と、ほうれん草のおひたしも出してくれた。向かい合って食卓につく。
「いただきまーす!」
 手を合わせて、レンゲでお米と鯛を掬いあげ、そっと唇をつけた。
 透き通っていた鯛の身は、温かいおだしで白くなり、ふっくらとしていた。口の中でほろほろと身がほどけて、舌に馴染み、旨味がじゅわっと染み出る。魚の臭みは上手く取れていたようで、鯛本来の甘みが思う存分に楽しめる。
 私は思わず、ほうと息を漏らした。
「んまぁ……」
「美味かね」
 母は上品な所作でおだしを啜っている。昔から静かにご飯を食べる人だ。食卓に好物が並ぶとはしゃぐ私は、食事中は静かにしなさいとよく怒られていたのだっけ。
 鯛はもちろん、うちで収穫したお米も絶品だ。潮風を受けて育った棚田米はミネラルが豊富で、じゅうぶんに太陽の光を浴びてのびのび育つので、ふっくらとして甘みがある。自然の恩恵を存分に享受した、自慢のお米なのだ。
 私たちは言葉少なに、鯛茶漬けをゆっくりと味わいながら食べた。半分はそのまま、残りの半分はワサビを少し溶いて辛味を効かせた。さっぱりとして美味しかった。

 ご飯を食べ終わって食器を片付け、デザートに極早生みかんを食べた。一息ついたので、私は気分転換に棚田を見に行くことにした。
 恋人の聖地に認定されたのでゴールデンウィークになると多くの観光客で賑わうけれど、この時期は夕方でなければ人もまばらだろう。
 五分ほど自転車を漕いで、慣れ親しんだ場所に到着した。畦道の草をサクサクと踏み分け、田んぼに落ちないように気をつけながら歩く。肩で切りそろえた髪の毛が、海風にあおられて揺れた。
 四季折々、いろんな表情を見せる棚田は、今の時期は休閑地で茶色い土が広がるだけだ。けれどこの寂れた光景も、私にとってはシンと心に染み入るものだった。
 かつては抱いたことのなかった感情で、この地を離れてから覚えるようになった。なるほど、これがノスタルジーってやつだろうか。
 そんなことをしんみり考えていると、不意に後ろから声をかけられた。
「おねーさん、田んぼの中は立ち入り禁止!」
「えっ」
 叱られた。多分観光客だと思われたのだ。うちの田んぼなのに……とショックを受けて振り返ると、そこに立っていたのは懐かしい面影を残した青年で、私は目を瞠った。
「……拓ちゃん?」
「もしかして真由姉?」
 互いに顔を見合わせ、ぱちくりと目を丸くする。私の記憶違いでなければ、うちの田んぼのお隣さん、瀬田家の息子である拓海くんだ。二つ下の、弟みたいな存在。
「真由ね……中村さん。ここでなんばしよっと?」
 拓ちゃんは頭を掻いた。照れているときにする仕草は昔から変わらないようで、思わず笑みがこぼれる。
「もー、真由姉でよかよぉ。十時のおやつ取り合った仲やけん」
 幼い頃、田植えや稲刈りの時期は私も拓ちゃんも仕事を手伝っていた。十時になると畦道に小さいブルーシートを広げて一緒にお茶休憩を取り、よくお菓子の取り合いをしていたのだ。
 いつの話だよ、と拓ちゃんがくすぐったそうに笑ったので、私はほっとした。
「今は福岡の大学に居るんやなかったん? 帰省中?」
「うん。卒論で棚田のことを書くから、色々調べに戻ってきてるんよ」
「へえー」
 大学のことは馴染みがないのか、拓ちゃんは卒論と聞いてもピンとこないようだった。
「でも今の時期にここを見に来ても、何もないけん」
 隣に並んだ彼は不思議そうに首を傾げる。私は首を振った。
「ううん、そんなことないよ」
 ここには幼いころからの思い出がいっぱい詰まっている。離れた土地に住む今でも、それは色褪せることなく残っている。
 歴史が刻んだこの棚田も、その向こうから運ばれてくる海風も。
 美味しいお米も新鮮なお魚も、玄海町に住む人々の笑顔も、何も変わらないままだ。
「県外に出て、大学に行って、色んなものを見てきたけど……」
 私は拓ちゃんを振り返った。そして。
「やっぱり私、この町が好き!」
 そう告げて、へへっと笑うと、幼馴染も嬉しそうにはにかんだ。

 おしまい

(一年前にアップした短編を加筆修正しました)
(佐賀県の町おこし小説コンテストに投稿した作品です)

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