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祭りに紛れて声をあげ、投石機に合わせて小石を投げる (上)

誰かが「社会で生きのびる上での最善の策は、黙っていることだ」と言っていた。

本当にそうだと思う。

大抵、何かを意見しても良いことなんてほとんどない。ちょっとでも間違っていたり、誰かの気に触れれば、発言者の生涯すら台無しになりかねない。

そういう時代になってしまったというべきかは分からないけれど、この流れが加速しているということは間違いなさそうだ。

ひとつの発言の中に配慮や知識が足りなければ、速攻キャリアが丸つぶれ。僕たちはいつからこんな危ない人生ゲームをしているのだろう。

ところで、みんなはYouTuberになりたいと思うことはあるだろうか。

僕は少なからずある。

自分の好きなコンテンツをシェアしながら、くだらない笑いを誘い、あわよくばスポンサーをつけたい。うん、良い。

剥き出しの下心で結構、と思われているだろうが、みんなもある程度はそんな妄想をしたことがあるんじゃなかろうか。

あるいは、YouTuberとして成功すれば、今よりも豊かで煌びやかな人生を送れるんじゃないかと、そんなことを思ったこともあるかもしれない。

しかし、僕はそんなふうに思いつつも、実際のYouTuber事情には疎い。どんなYouTuberがいて、誰がどうしたというのはほとんど分からない。

だから、僕にYouTuberの情報が入ってくるのは、彼らが何か大きなことをしてバズった時くらいだ。

みんなも大体分かるとは思うが、基本YouTuberがバズる時は、斬新で新しいことして有名になる時か、何かでしくって謝罪する時だ。

ファンやYouTube好きにとっては、その有名になるまでの過程や、なった後でいかにそれをキープし続けてきたかなどの、日常の投稿の中にYouTuberを追う機微があるのだろう。

けれど、僕にはその過程もなにも、ほとんどのそうした情報が届かない。ある意味、バズったYouTuberたちは、そのまま僕の中でバズったまま時が止まっているのだ。

しかし、彼らはその美しい姿だけを僕に焼き付けていくわけではない。

そう、すごいYouTuberがいるんだなあと感心させられたかと思えば、ふとまた見る頃には、彼らは集団面接みたいに並んで、ファンにつむじを見せて謝っているのだ。

もうYouTuberの宿命とさえ言える謝罪、2回目にバズる瞬間のことだ。

目からウロコである。あんなすごいことしてたのに、突然なにをやらかしたのだろうなーと、所在なく口が開いてしまう。

それもそうである。彼らが有名になるまでにどんなスキルを磨いたのか、どんなコンテンツを育ててきたのかを僕は知らないし、そんな彼らがどんな風に名声の勢いに飲まれ、元の正気を失っていったのかという変遷も、僕は全く見てきていないのだ。

だから、特にチェックしていない僕にとってのYouTuberは、功成り名遂げて隆盛を極めたかと思えば、次の瞬間には地に額を押し付けて没落している存在なのだ。

あっさりしすぎな歴史の勉強でもさせられているみたいに感じる。織田信長、なんかすごい戦いに勝った!けど裏切られて死んだ!くらいの簡潔さだ。

彼らYouTuberは、有名になる前ならば、何をどれだけ食べようが、メンバーの仲が悪くなろうが、立ちションしようが、特に騒がれることなど無かったのだろう。

着々と登録者を増やし、輝かしい盾を並べていく中で、ファンの増加を喜ぶことはあっても、その何倍もの監視者が増えるという恐怖を覚えることは無かったのかもしれない。

あるいは、こうも言えるだろう。彼らが増やしていたのは、彼らを愛してくれるファンではなく、ただ刺激を求める見物人であると。

例えば、危険な大道芸や失敗すれば命に関わる脱出ショーを見ている人たちは、もちろん成功してほしいと思いながら、その芸人やマジシャンの命が死と隣り合わせになっていく過程を見るのかもしれない。けれど、もしそれが失敗すれば、成功した場合よりも更に熱く拳を握り、食い入るように眼前のエンターテイナーがキャリアを終えていく様子を見届けるだろう。

見物人にとっては、人の幸も蜜ではあるが、やはり不幸こそが至高の蜜なのかもしれない。

ショーなどをやらずとも、私たちが思っているより、見物人は常に周囲にいるものだ。

インスタグラムに写真をあげる。角度も色彩も、全てを完璧に考えて撮った努力の塊につくいいねは10程度。けれど、ただ酒の入ったグラスを掲げて「うえーい」とか弾幕をつけたブーメランをストーリーにあげれば、100人がそれを見ている。

いいねと閲覧数の違いはこんなにも開けているのだ。まあ、これはTikTokで誰かが言っていたことの受け売りなのだが、彼ら見物人はあなたを愛してはいないが、監視はしているということを示しているのだろう。

芸能人や有名人のスキャンダル、失言に伴う炎上に関しても、こうした見物人たちが暗躍している。

有名人が浮気をすれば、それは神に唾する行為かのように非難される。

マイノリティの気を少しでも逆撫ですれば、差別者として追放される。

センシティブな言葉を単に発するだけでも、人権保護団体の逆鱗に触れる。

こうした炎上の中で、直接の被害者と呼べる人々はごく僅かである。しかし、実際にはその何倍もの人々から批判が投げかけられる。つまり、その批判の中には、関係無いはずの見物人の声が混ざっている。

見物人たちは、他人事であろうと目に映る刺激をみすみす放っておくことなどしないのだ。

もちろん、最初に批判の声をあげるのは直接の被害者かもしれない。顔が歪むほどの不快感に、叫喚の声をあげざるを得なかったのかもしれない。しかし、2人、3人と声があがっていくなかで、何も関係の無い見物人でさえ大声を出し始めるのだ。

「お、みんなでなんか騒いでるから俺たちも騒ごうぜ」と見物人たちが集まってきてしまう。

見物人の手によって、その苦痛と共感で繋がれたムーブメントはただの祭りとなってしまうのである。しかし、あくまでもそれは被害者のため、正義のための聖なる祭りである、という建前だけは守られる。

〇〇神社祭などをやっても、その神社の神様に思いを馳せる瞬間など一時もないのと同じである。

被害者たちが苦しみから助けを求めるようにあげた叫び声は、見物人たちによって、祭りの掛け声にされてしまう。

それは既に、特に意義を持たない共鳴でしかない。見物人は、単に空気伝搬で音が伝わって響く音叉のようである。

しかしその音叉のようにただ響く共鳴も、元の音とは違うものになっているのである。苦しみ、不快からあげられた元の音は、祭りの掛け声という気持ち良い快の音に変わってしまっているのだ。

うん…流石に、音叉だ祭りだと比喩を使いすぎた。ちょっと読んでいる人を置いてけぼりにしている気がする。

じゃあここで、芸能人の不倫を具体的な例として考えてみよう。

俳優のAさんが、女優のBさんと婚姻関係を結ぶも、Aさんが不倫をしてしまったとしよう。

まあ、例えずとも、発覚から1年半年ほど経ったあの実際の不倫事件を思い起こしてもらって構わない(笑)。

Aさんの不倫が世に知れ渡ると、瞬く間にAさんへの非難が寄せられる。「最低だ」「クズ男」だと、ありとあらゆる言葉が投げかけられる。

しかし、ほぼ唯一の直接の被害者であるBさんは何も言ってはいない。Bさんは、「Aさんをみんなで非難しろ」とも、「Aはクズ男だ」とも言っていないのだ。

それでも、周りの関係ない見物人たちは、Bさんのためだと言いながら、罵詈雑言を吐いていくのである。

彼らはAさんの不倫によって何の不利益も被っていないし、苦痛とは程遠い感情を抱きながら、「不倫は悪いもの」という前提で悪口大会を楽しんでいる。

彼らは「不倫は悪いよねー」と決まり文句を言い合って祭りのように騒いでいるだけなのである。

神様なんてそっちのけで「わっしょいわっしょい」と掛け声を叫ぶことが、彼らにとっては気持ちいいのである。

更に言ってしまえば、Bさんがその原点となっていない、最初の叫びとなっていない以上、これは祭りで始まり、祭りで終わったムーブメントとも言える。終始、見物人たちが祭りを楽しんだだけなのだ。

そして、それがまだ、ただ騒ぐだけの祭り程度で終わるのならば、幾らかマシなのである。時には、それだけで収まらないものも往々にしてある。

そうした祭りのように熱狂し、燃え上がった状況では、他人を迫害するような声や、容姿などを蔑む声、死をもちらつかせるほどの誹謗中傷が飛び交うこともある。

1人の発言では有り得ないような内容が、大勢となると平気で飛び出てくるのだ。

それが見物人の恐ろしいところである。みんながわいわいぎゃーぎゃーと騒いでる中で、「どうせ聞こえないだろ」と見積もり、言ってはならない言葉を口にする。

これは目的も意義も無い祭りというよりも、戦いという意義を見出された、城壁落としに似ている。

敵の居場所が確認されると、その城壁を崩すため、投石機で大きな岩が投げられる。

そうして、不倫をするようなクズ男などの敵を攻め落とす際、実際の被害者のみが、投石機を動かすことを許されるべきである。あるいは、そこを本当に攻め落とすか否かは被害者の手に委ねられているはずである。

しかし、敵への恨みや憎しみを共鳴的に増幅させた周囲が、勝手に投石機を動かし、他に手を余らせた者達は、石を拾って思い切り投げつけるのである。

きっと、彼らは1人の状態であれば、どんな憎い相手にでも思い切り石を投げつけることなどできないだろう。

しかし、その熱狂と周囲の勢いに流され、何も関係の無い人々が、さも聖戦かのように石を投げ続けるのである。

そして「石くらいじゃだれも死なないだろう」と軽く見積るがために、その石を投げる力が緩められることはない。

その中で誰かの石が敵とみなされた本人や、その周りの人を直撃したとしても、誰も自分の石が当たったとは思わない。罪悪感もないのである。

そして、思い切り石を投げてストレス発散した後は、各々満足して去っていく。

実際にその攻撃によって、敵をどれほど苦しめたか、被害者の気が晴れたかどうかなどは、石を投げる周囲にとってどうでもよいのである。石を投げて気持ちよかった、それだけなのだ。

見物人、石を投げる人々にとっては、あくまでもそこに、ワクワクできる刺激があるかどうかが重要なのだ。飽きれば彼らは全ての大義も大分も捨てて去っていく。

ここまで読んで「YouTuber…あんまりなりたくないかも」とか、「見物人になって無闇に石を投げないように、やっぱり何も言わないのが一番なんだな」と思われたかもしれない。

しかし、僕の言いたいことはむしろ逆に近い…のだが、本題に入ってしまうとまだまだ長くなるので、今回はここで終えることにする。

今の時点では「有名になるのって怖いことなのかもなー」とか、「自分も知らず知らずのうちに祭り気分で人をいじめてたかも」としみじみ思ってもらえれば充分だ。

僕が見物人とかをあまり詳しく定義しなかったのはそのためなのだ。僕だってあなただって、明日には平気な顔をして人の不幸を覗き、目的のないお祭り騒ぎに参加してしまうかもしれないのだから。

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