背徳について

漢文とやらをもう少しだけ真剣に勉強すれば良かった。昔はあんなに小さく哀しげ見えた国語教師の背中だったが、今となっては全く頭が上がらない。それにしても、「税金泥棒」とは、何とも悲痛な罵倒だ。

「徳に背く」ということであろう、背徳というのは。これが違っていたらこの文章はここでおしまい。

ノーパンで学校に行ってみる。先生のことを「先公」と呼んでみる。授業があるのは知っているがサボってみる。まだ高校生だがビールを口にしてみる。喫煙所の外で煙草を吸ってみる。「ペットボトル用」と書かれたごみ箱に空き缶を投げ入れてみる。

なぜ僕たちは徳に背いてしまうのだろう。


「アレテー」と「美徳」という言葉がそこにあったので、せっかくだし使ってみよう。

"Arete"とは現代の英語に訳せば"excellence"。日本語だと「最高善」などと訳されるらしい。"excel"かあ。「最高」かあ。こう言えば誰かに怒られるかもしれないが、徳には優先順位があったらしい。誰がその順番を決定したか。それは「まつりごと」だったはずだ。神は死んだらしい。僕たちはその善に忠実を誓うことによって政治の恩恵を受けることが出来た。「善に忠実を誓う」とは徳の高い行いをする、ということだ。

ただ、そこに「美徳」という言葉が現れてしまった。この言葉はその秩序を崩壊させる端緒だったのかもしれない。三島由紀夫は悪いが、美しい日本男児だなあ。この言葉が意味するのは、美しいか汚いか、という物差しで、絶対的なものであったはずの徳を測ることが出来るようになってしまったということだ。つまり、徳が美学に敗北してしまったのだ。「美しさ」によって統一を失った徳は、今までは秩序の外にあった行為と同じ土俵に乗せられてしまった。


背徳という行為は、故に、徳による支配からの脱却だけでなく、それに取って代わった美学の提示と言うことが出来るのかもしれない。それは新しい人間の誕生であり、同時に、彼が新たに身を置く世界での存在証明なのでは無いだろうか。彼の中に眠っていた神の目覚めを知らせる息吹なのでは無いだろうか。

だとすれば、誰が彼を責めることが出来よう。













などと、仰々しく自己正当化をしてみたが、春という思わせぶりな季節に惑わされて素っ裸で寝るのは風邪を引くからやめた方が良い。