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ダ・ヴィンチも出来なかった

 だからまちもそうだ。大学までの通勤路も商店街を抜けてくねくね道を歩くこと1時間弱、お店が途切れることがない。商業地区と住宅地区という様に区切られず、細い路地に入っても袋小路が無い。必ずどこかの道に、広場に繋がっている。似たような飲食店も不思議とずらずらと並んでいたりする。ヴェネツィア人は同じ店に長居して呑まず、一杯呑んでまた別の馴染みの店で呑み直したりするから、実はそれも理に適っていたりする。そして、案の定また話し込む。店の人と、隣で飲んでいる客と…。


 店員に目を向けてみると、バールでもみんなが同じ作業をしていることに気づく。一応は役割が決まっているようだが、それぞれがコーヒーをつくり、スピリッツをつくり、チケッティと呼ばれる小さなつまみを盛る。
 その都度、人手が必要な箇所に可能な人材をまわして、なんとかその場を凌いでいく。さて、うちの映画マスターコースでも同じことが起きている。映画ほど役割ごとの連携が必要な事は他にないにも拘わらず、どんな手を打って防ごうとしてもそれは起きる。

 ここでは分業というものがほぼ機能しない。全体のディレクションに基づいて「あなたは決められた仕事を遂行することだけ考えなさい」と指示されて納得する人たちではないのだ。確かに極端な分業は無機質で非人間的な作業を生むから、出来ればそういう作業は避けたい。それはイタリア人でなくてもそう思うだろう。「でも仕事だから仕方ない」と妥協するところを、イタリア人は我慢出来ない。
 しかし全体像が見え、全てに関われるとなると、彼らは驚くべき集中力とやる気を発揮する。基本、職人は分業せず、最初から最後まで責任を持つ。そこには均一化とは一線を画した、一つひとつが少しずつ違う、豊潤な差異に満ちた世界観がある。これがイタリアのお家芸ともいえる職人スタイルで、革製品、洋服、車のフェラーリなど世界で他を寄せ付けない輝きを発しているのだ。

 また、かの有名なダ・ヴィンチは画家であり、科学者であり、治水や軍事も担当する天才であったという。またミケランジェロも彫刻・建築・医学・物理学など様々な領域で才能を発揮する「万能の人」と讃えられている。ただ、彼らもまた現代に生きるイタリア人同様、分業は出来なかった。分業は出来ないが、好奇心には忠実だった。人間を描こうを思えば、その人体の中身(医学)に興味を持ち、光と影について知りたくなれば、物理の実験に明け暮れる。結果として今の時代の「分けられた学問」から見ると万能の人になった。
 先ほどのバールの例も、僕が関わっているマスターコースの学生達も好奇心旺盛で、何でもやってみたいという点では一致する。だから逆に専門でないことをやらせてみても、意外と嫌な顔をしない。寧ろなんだか楽しそうだ。職人気質で頑固なのかと思いきや、可愛らしく、いい奴なのかもと思えてしまう側面を併せ持っている。

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