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それは「分けない世界観」

 僕も毎日ヴェネツィアのまちを歩いている。仕事人も学生も旅行者もみんな歩く。このまちには車や自転車が走っていないから、ひたすら歩くか船に乗るかしかない。そして入り組んだ路地で迷う。
 目的のお店が目と鼻の先にあっても辿り着けないこともある。携帯のGPSなど使おうものなら更にハマる。だから、予定を立てて出かけても、目的を見失うことも多い。それがいい、というかそれでいい。
 家から大学へ通うルートも無限大。時々時間を忘れ、僕の担当教授のロベルタから呆れ顔で笑われることも。全く弘樹はイタリア人なんだから、と。あれ可笑しいな、僕は時間に正確で約束は必ず守る人だったのに…。

 でも僕にだって言い分はある。彼らこそ約束の時間に来ない、それもいつも。お店も午後二時過ぎには一旦閉まっちゃうし、彼らは忙しい忙しいと言いながらも、ちょくちょくカフェには行く時間はあるようだし。ふと入った食堂の店員たちも、僕らが食べてるテーブルの脇で堂々と賄い飯を食べ始める。「午前中しかやってない役所」の手続きもスムーズにいかず、担当者にどうしたら良いかと聞くと、そんなの自分にも分からないと言われる。ストも頻繁にある。学生達も卒業式まで就職活動もろくにしないんだ。でもこれがイタリア、それが通常、みんなそうしている。ここで生きている。

 「そんな事で成り立つの?不便だろう」日本人ならそう思うだろう。
怒りたくなるだろう、改善したらいいのに、そう思うだろう。
もちろんイタリア人だって、何も気にしてないわけじゃあない。それについて、あーでもないこーでもないとずっと議論している。政治について、仕事について、サッカーについて。でも、特に問題にはなってはいないようだ。諦めている訳でもない。

「でも、そういうものなのだ」。そういう考え方で、ありのままを見る。分からなさを抱える力を持つ。そうすると段々可笑しみさえ湧いてくるから不思議だ。実際ヴェネツィア人も、実に陽気で毎日楽しそうだ。

 彼らは仕事だから、学生だから、役人だから、プライベートだから、便利だから、効率的だから、そろそろ卒業だから、そういう風に割り切っていないだけだ。

そういえば世界は、人は、割り切れないことだらけだったね。分かるとは「分ける」と書く。分かりにくい部分を切り捨てて、要約して分かりやすさを生み出す。なるほど、彼らはとにかく良く語り合っている。話す方と聞く方とさえ、分かれていない。片方が話している最中に、相手も同時に話していたりもする。だから話がどんどん入り組んでいく。でも、何度も何度も、時間がかかっても「単なるクーラーの設置工事の段取りの場面でも」ずっと話し合っている。スーパーのレジでも、いろいろ話し込んでいる光景を目にする。おーい、列が混雑して来てるよと言いたくなるが、そのレジ員もお客も全く気にする様子もない。

 なんか凄いことだなこれは!僕がそう気づき始めたのは最近のことだ。道で出会えば挨拶だけでは済まない。道を聞いても、彼らは聞いてない情報まで教えてくれる。子供がいれば鞄から飴玉を出して渡す。飴玉が無ければさっき買ってきたであろうパンをくれる。
 僕はイタリア語がまだ良く話せないから、しばらく会話することに消極的になっていたんだけれども、それでは駄目だったんだね。

 自分と相手を切り離さない。分からないから話す、分けられないからどこまでもそれを毎日繰り返す。効率や生産性という観点からみれば切り捨てられそうな出来事だが、ところがどっこい割り切れない無理数の世界に僕らは生きているのだ。

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