見出し画像

野性のエンジン1. 【ルイ・ヴィトンのお茶は可能か?!】

1990年代、私は東京の半蔵門駅近くにあったスイスの国際的医薬品商社代理店で開拓営業にたずさわっていた。Z社と言い欧州の名だたる医薬品企業をほぼすべて扱い、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポールに支社があった。日本代理店社長はO氏と言い、フランス、ベトナムそして日本人の血を受けたハーフ?の方だった。貴族の血をひいているとよく話されていた。確かに今から思えば、会話にロックフェラー一族の名前もよく出ていた。ある時スイス本社から創業者のZ会長が視察と骨董買付で来日され、私は紹介されたが、後でO氏には、早瀬はワイルドホースだからレーシングホースに鍛え直さなければいけないと話したらしい。(上等じゃねえか🤬)
Z社の威名のおかげで日本の製薬大手はほぼ訪ね、高度な訓練営業を受けることができた。Z会長が一目で指摘したように私の野性はその後遺憾なく発揮され、私の人生は波乱続きとなった。しかしO氏はそんな私のどこかを認めてくれており、よくガッツサインで励ましてくれた。常にオリジナルを追求して自分だけの市場と商品を見つけよう、作り出そうとする野性のエンジンに振り回され、様々な営業を愉しんだが、当然それも40代からは通用せず、1995 年のショック(サリン禍と神戸震災)をバネにして農業企画の世界にのめりこんだ。なにかに取り憑かれたようにかつては工業とバランスしていた広大な農業分野の再生創出のために、一人任意団体を名乗り実力派の農業企業をネットワークし始めていた。そんな私の野性のエンジンが魔の暴走をしながらも、巻き込んだ会社に結構な利益や新機軸をもたらすようになり、荒地のエンジンの頃には、私の食と農のマッチング企画はT調理師専門学校担当からは早瀬マジックという評価も頂いた。そのような小ジャンプを可能にしたのが、ミシュランの星を持つ料理人とのコラボだった。以前にも書いた京都ミシュラン3星料亭オーナー(当時)や、T調理師専門学校、華道団体機関紙編集長らの方々をお茶マッチング委員会に参加頂き、農水省からは好評だったが、日本茶業界団体からは白い目をされたコンセプトが、
【ルイ・ヴィトンのお茶は可能か?!】だった。
当時から日本茶は世界的ブームだったが、国際的農薬規制(グローバルギャップ)のため、日本の宇治などの極上茶は正式な輸出が困難なのだ。欧州の空港、港、倉庫などには、検閲機関の抜き打ち検査があり、真っ当な製茶業界はなかなか進出できない。そのために、“何もしないオーガニック”の青汁味のお茶が世界的に拡散しているし、中国産の日本茶がほとんどなのだ。そんな逆風の中での一発逆転が【ルイ・ヴィトンのお茶】と考えた私は、専門委員の肩書をフル活用して、主だったファッションブランドの日本支社へのアプローチに疾走った。ルイ・ヴィトン、アルマーニ、グッチ、シャネル、クリスチャンディオール、カルティエ、ブルガリ、コーチなどなど。中でも印象に残ったのは、アルマーニジャパンからのお叱りとコーチジャパンからの参画希望だった。企画提案書の中での『例えば、アルマーニのお茶…』という表現に対してアルマーニという名前を気軽に使うな!と担当者が切れた事。かりにも農水省やお茶全国団体の参加委員会担当からの企画書に食ってかかるなんて!早々に退散した。一方、コーチジャパンの部長(当時)は、【コーチのお茶】をノベルティ企画として採用したいので、お茶ブレンディングの専門家とのミーティングを設定してほしいとの、ズバリやりたい意向を伝えて来たが、お茶業界側が、キョトンとした感じで全く対応できなかった。当時、茶鑑定士と協力して日本全国のおそらく千を超える銘茶の味覚センサーによるプロファイリングが進行中であり、もったいないことに、いざ茶業界があの話どうなったとなった時には、コーチ側が離れていた。今現在、その貴重なプロファイリングデータは団体事務局で長い眠りについている。そうこうしているうちに世界そのものが暗転してしまい、ブランドという概念そのものがぐらぐらゆらぎ始めたので、野性のエンジンは次の獲物に取りかかっている。


お茶マッチング委員会報告書


同上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?