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“騎士団長殺し”読書感想文30. 《生殺与奪の権は日本人には持たされていない》


“「これはただの始まりに過ぎないのではないか、という気がします」と免色は別れ際に私に言った。とすれば、私は彼の言う何かの始まりに足を踏み入れたということなのだろうか?しかし何はともあれ私は、絵を描くという行為に久しぶりに激しく心を昂ぶらされたし、文字どおり時が経つのを忘れて絵の制作に没頭することができた。

免色は続けた。「残念ながら私はあなたのような芸術家ではありません。私はビジネスの世界に生きているものです。とりわけ情報ビジネスの世界に。そこではほとんどの場合、数値化できるものごとだけが、情報としてやりとりされる価値を持っています。……

「……私の気にかかるのは、私たちがそこから受け取るはずのものをまだ受け取っていないのではないか、ということなのです」

「―そしてその私の直感に従えば、私たちはあの掘り起こした地下の石室から、何かしらを手にすることができるはずなのです」

「たとえばどんなものを?」”


免色渉という人物は吉川晃司や白洲次郎を彷彿とさせるように感じられる。彼の情報ビジネスとは単なるコンサルティングや金融情報の領域を越えた、金額ならば数百億円、時間ならば百年ベースの、国家や民族の趨勢を左右するようなリスキーなフィールドをも含んでいる気配が立ちこめる。いわゆるインテリジェンス、諜報のような。この百年日本人がまさに喪失してきた、陸軍中野学校でひとつの頂点を迎えた、国家デザイン、世界の重層構造、民族防衛に関する、〔生殺与奪の権〕。自衛隊や公安調査庁、内閣情報室なども、おそらく一般国民がゾッとするような低予算、少人数運営に違いない。頼り切っていたアメリカ国家機構自体が、ディープステートに切崩され、国家・民族という概念そのものがオワコンとなり、一億総国民メタ認知症に追い込まれてゆく。コロナ禍もウクライナも単なる始まりに過ぎない。

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