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君と生きる幸せ



<貯金しておいて。僕が出すから。もし君が離婚したいと思った時、先立つものがないと不安でしょ>

結婚して3年経った頃、莫大な借金と引き換えに得た一軒家。その契約書にサインした後、その人は大きく息を吐いた。未来を限ること。広い世界から自分の空間を手に入れること。それは同時に、己の自由を奪われることでもある。その人は。




おかゆが脱走した。つい先日の18時50分の出来事だ。とっぷり日は暮れているものの、寒さは感じない。雨の前兆のおかげかもしれない。

本当にふいだった。そよぐ風にカーテンを剥ぐと、サッシに頭一個ぶんの隙間が出来ている。ひゅっと喉が鳴った。

「おかゆ」返事がない。「おかゆ」鈴の音が聞こえない。あわてて懐中電灯とチュールをつかむと、ドーム型の寝床をケージから引っ張り出す。

玄関を出る。懐中電灯がない。さっきつかんだはずなのに。家の回りを歩く。砂利が大袈裟な音を立てる。

「おかゆ」

素早く動く影。わずかに見えたシルエットは、いつの間にか大きくなった、どこにでもいるような猫。子供だ子供だと思っているのはいつだって大人だけで、いつの間にかこんなにも成長している。その姿を目の当たりにしてよぎった不安。

ずっと気づかないふりをしていた。「幸せ」の形はみんな違って、誰かの言う幸せが君の幸せとは限らない。何かを選ぶことは同時に何かを捨てること。その選択肢を与えることの出来なかったことへの不安。不安はしつこく頭をよぎった。

自分の通れる幅、危険を察知するひげ。そんな優秀なものをつけているにも関わらず、好奇心には勝てず痛い思いをすることの多い、猫という生き物。よぎる。本当は外で生きたいんじゃないか。世話をされ、ぬくぬく生きるより、高い空を見上げて、自然の香りをかぎ分けて、土を踏みしめて、思うがままにたくましく生きて行きたいんじゃないだろうか。そんな可能性から目を背けて来た。今、君は自分の意思で生きる世界を選べる。


<貯金しておいて。僕が出すから。もし君が離婚したいと思った時、先立つものがないと不安でしょ>


「おかゆ」

猫はすぐさまどこか遠くに行く訳ではない。それでも100%みんながみんな同じ行動をとる訳じゃない。うちの子だけイレギュラーが起こらないなんて可能性はない。不安なのは、万が一逃げ切れてしまった場合、狩りの仕方を教えていない。普通より一回り小さい身体。その頼りなさに打ち震えた。

お願いだから。

「おかゆ」

呼ぶと「にゃっ」という短い鳴き声がした。懐中電灯がない以上、頼りになるのは聴覚のみ。すがるように再び呼び掛けると、同じように「にゃっ」と返ってくる。まるで点呼だ。ただ、返事をしながらも近づいてくる気配はない。圧倒的自然の中、あまりに無防備な自分に気づいたのだろう。ウッドデッキの下から出て来ない。

一般的に猫の視力は良くないと言われている。それでもその後、玄関のライトに照らされた自分の寝床が分かったのか、小さい影が小走りに駆けていくのが見えた。横に設置したチュールには目もくれず、その中におさまる。私はすぐさま寝床を掴み上げると玄関のドアを開けた。




「何、脱走したの?」

ただいま、と着替えるなり話を聞いて笑うその人は、大して驚きもせずに言った。実家で猫を飼っているため、想定内だったのだろう。

結局懐中電灯はケージの真ん前にあった。それだけあわてふためいたことを必死で話すが、同じ温度では伝わらない。その人は「猫はすぐさまどこか遠くに行く訳じゃないから大丈夫」と言った。

そう。

膝の上でこれまでになくリラックスして寝こけている君。君は。



少しして「違うよ」と返す。

違うよ。そうじゃない。



無防備なお腹。その前足がピクピクと動く。


思い出した。結婚して3年経った頃、莫大な借金と引き換えに得た一軒家。その契約書にサインした後、その人は大きく息を吐いた。その時言ったこと。

<これで僕の身に何かあっても、君は守られる>


「違う。この子は自分の意思で帰ってきたんだよ」

怖かったから。空腹だったから。安心して休める寝床が欲しかったから。それだけじゃない。そんな消去法じゃない。それは、限りない能動。


その人は目元をほころばせて「そっか」と言うと、君の頭をなでた。

ぐるぐる鳴らすのど。私達は幸せだね。


ねぇ、おかゆ。







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