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下僕であることを思い出す




 診察室に迎え入れる時、目が合った。じっと見られる。向こうは分かっていたみたいだ。
 気づく。認識した瞬間、突き上げたは想い。

〈大丈夫〉

 そう言って肩を叩かれたことを思い出す。仲間由紀恵似の友人は、カラカラと笑った。


 元々女性の採用率が高い上、男性が選考するためか、前職は外見重視で採用したとしか思えない程美人が多かった。スチュワーデスにいそうなタイプ、柴崎コウ似、仲間由紀恵似と、友人だけでもS級が揃っていた。ふと高校生の時、偏差値60の2人と仲の良かった私が、とある教師に「60と50がいたら50に合わせて話をしなきゃいけなくなる」と言われたことを思い出す。泣かない。
 美人で思い出したんだけど、浜崎あゆみばりのパーソナルカラースプリングな友人は、共通の友人の結婚式に「呼ばれた側」であるにも関わらず、居合わせた男性陣全てを下僕と化した。立ち上がれば振り返り、歩けば道をあけ、階段に差し掛かれば下に立ち、今にも手を差しださんばかり。これは単に言いたかった。マジもんは格が違う。
 今回話すのは当時からの友人、仲間由紀恵からとって仮にゆっきーとしておく。


 ゆっきーは美人だ。美人すぎて最初写真を撮りまくってフォルダの3分の1がゆっきーになった。困らせるんじゃない、と別の同期によく怒られた。けどやめる気は無かった。飽きるまで、自分が満足するまで撮り続けるつもりだった。ただ飽きることも満足することもなかった。何故なら一枚として同じ表情が撮れることはなかったから。どの角度から撮っても、どこを向いていてもゆっきーは美人だった。同じことをやられたら残念な子が写っていた。私がおかしいんじゃない。普通がこっちだった。

 ゆっきーは美人だ。だからお喋りをする時、緊張してどうしても浮き足立ってしまう。バスで隣の席になった時「し、趣味は?」とか「好きな色は?」とか聞いて、別の同期にお見合いかとツッコまれていた。
「盗撮魔」とか「ストーカー」とかあらぬ呼び名がつく頃、一箇所に集められた同期の研修は終わり、各々現場に散った。当然ゆっきーとも離れることになり、何とか入手したメアドを頼りに、日々「ゆっきー不足で辛い」と泣き言を送っていた。今思えばヤバいやつ以外何ものでもない。

 仲のいい同期で集まったのは最初数ヶ月。結局予定が合わなくて疎遠になるものの、ゆっきーとは定期的に遊んだ。「今度は私が車を出すよ」と言うゆっきーを押し留めて毎回車を出したのは、助手席に乗せるのがうれしかったからだ。結婚式で居合わせた下僕たちと何ら変わらない。どうぞ使ってください、と思う。

 じゃあ私にとって、単にゆっきーが美人だったから下僕と化したかというとそうではない。美人なだけならきっと、研修を終えた段階でフェードアウトしてる。
 友人である。
 こうしてみると友人関係は対等かというと微妙にそうでもない気もして定義が危ういのだが、実際私の友人関係にはとある傾向がある。
 受容と母性。
 以前少し話したが、私の中には5歳女児と大人の野郎がいる。その双方が満足するのがその性質を持った人たちであり、そんな私の需要をしょうがないと赦してくれる相手、5歳女児が好きなだけ騒いで困らせても、大人の野郎がイキってカッコつけて盛大に転んでも笑って赦してくれる相手のことを友人と呼んでいる。だから逆にそれだけ自由にさせてくれた分、どうぞ使ってくださいと思う。つくづく自己完結型の、何とも勝手な人間だ。
 余談だが「自由」というのは常から私の求めるワードであり、ここに属する相手を好みやすい。面白いものがあるので、参考までに貼っておく。


ちなみに私は司令型(理想型だと思ってた)。法則型を好み、法則型にあしらわれる。



 そんな自分本位な友人関係が続く中、ある日結婚することを報告する。ゆっきーが悲しい恋をしていた時だ。その時言ってくれた言葉が忘れられない。

〈大丈夫。──ちゃんが選ぶ人だもん。いい人に決まってるよ〉

 正解なんてない。何の保証だってない。けれどまっすぐ目を見てそう言える彼女が、お腹出して寝るように全てを曝け出してきた相手だったからこそ、言葉通り受け取れた。妙齢。先を行かれる寂しさ、辛さ。それでもきちんと幸せを願える。私もまた、彼女の幸せを願った。
 時は流れ、彼女もまた結婚し子供を産んだ。あれからもう5年以上経つのか。久しぶりに顔を合わせたゆっきーはやっぱり美人だった。突き上げる思いに、何も出てこない。あの時と同じだ。どうしても浮き足立ってうまく話せず、ハンドルを取るまではいいものの、よく道を間違える、カッコつけたいだけの。
 友人としてただ傍にいたかっただけの、幼い感情で一杯だった自分。それが、子供の泣き声ひとつで目を覚ます。診察室入り口、困ったように眉を下げるゆっきーは、幼子を二人連れていた。
 一人診終わって、もう一人の診察する間、先に終わったギャン泣きの弟を連れ出す。
「ママ」と叫び続ける声に、自宅の猫の鳴き声が重なる。友人の出産報告に「おめでとう」と返すたび、足元で「遊べ」と鳴き続けていた生き物。
 全力で抵抗する子供は、容赦なく蹴る。暴れる。その力に、泣き顔に、心が揺れる。どうぞ使ってくださいと思ったことを思い出す。


 いいよ。好きなだけ暴れなよ。
 お母さんはね、その何倍もの痛みに耐えて君を産んだんだよ。


〈大丈夫〉

 ぼたぼたと泣き続ける私の肩を叩きながら笑った。
 何をそんな心配しているの? と私より私を信じてくれた。
 君のお母さんは全力で泣いて求めるにふさわしい人だよ。


 少ししてやってきたゆっきーは、泣き喚く子供2人を片方ずつ抱き上げた。この細腕のどこにそんな力があるのか分からないが、今に始まったことではないようだった。息が詰まる。
 本当は伝えたいことが、聞きたいことがたくさんあった。のに、何ひとつ出てこない。一方的に押しかけるようにして築いてきた関係。だから私の近づき方が分からなければ何も起こらない。

 何から話せばいいんだろう。

 言葉が出てこない私を、ゆっきーはじっと見つめた。あの時と同じだ。私はこの目にやられた。私は彼女の意図を汲まなければいけない。私は。


「またね」


 全てを見透かしたようにゆっきーはそう言った。
 また。
 病人が集う場所で言うことではない。

「ゆっきー不足で辛い」と送った日のことを思い出す。いつだったか、友人が出産する度「友達が欲しい。サンタさんにお願いしたらくれるかな」と旦那に呟いていたことを思い出す。

「またね」

 小さく返す。
 近くて遠い。5歳児が、大人の野郎が、手を振る。
 ゆっきーはやっぱりキレイだ。







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