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鯰の上に建てた大伽藍

江戸には鯰絵というものがあって、地下に住む鯰が暴れると地震が起こる。江戸時代には安政江戸地震1855年に起こっており、死者は少なく見積もっても6千人いたそうである。その後の関東地方の地震では、防災の日になっている関東大震災が1923年9月1日に起こっている。関東大震災では死者なんと10万人。今年でちょうど100年である。地震の周期はわかないけれど、いつ大都市東京を震源とする首都直下地震が起きてもおかしくない世界に私たちは住んでいる。

南海トラフ巨大地震というのも警告を聞かされてから長いけれど、どうやら専門家の間では大体の周期が予想できるようであり、私の尊敬する養老孟司先生もこの説に沿って話をされており、どうやらその説によると「2038年」説が濃厚であるようなのだ。

いずれにしても日本列島というのは、江戸の人がイメージしたように、地下の鯰が暴れたら地震がおきるくらい、不安定な土地に住んでいるということだ。そして、鯰の背中の上に建てられた大都市東京の大伽藍は、鯰が暴れたら脆くも崩れ去る。明日来てもおかしくない首都直下地震は、私たちに何を教えてくれるだろうか?

高層ビル群はどうなるだろうか?愛車はどうなろるだろうか?住んでいるマンションはどうなるだろうか?

そんなことを考えていると不安になる方も多くおられると思う。しかし、これが不思議なことに仏教的な諸行無常、諸法無我が腹に落ちているとなんとも思わなくなる。万物が移り変わっていくこと、壊れて変化していくことが本来の姿である。

生きていればそれだけでいいとさえ思う。生きていればまたリスタートできる。もしこれから起こる大地震が起きると、あらゆるもの、それも大規模な事業そのものが破壊されて混沌とする。カオスの世界である。ただカオスからまた新しい事業だったり生活だったりが起こってまたコスモロジー(秩序)が形成されていくのではないだろうか?破壊がなければ新しいものは生まれない。ある時に、あの震災は悲惨だったけど、あの震災の【おかげ】で新しい【今の生活】があるとさえ思うようになるはずである。

さらに言うと震災だけではない。現在起きている遠い彼の地の戦争だって他人事ではなくなるかもしれない。資本主義というお金で作られた大きな観念のハリボテも崩壊するかもしれない。その時、お金に対する信仰だったり、執着だったりそういうもの自体も脆くも崩れ去る。

文字通り裸一貫になっても、精神【心】さえ豊かであれば何もいらないのだ。
私は大好きな中沢新一さんの著作を通してそのことが骨の髄まで浸透している。ボロボロの袈裟を着て、ホームレスの方と見紛う方が、チベット密教の行者で最高の精神に到達しているという人が現実にいるのだ。

今日の分の食料と寝床さえあれば他になにもいらない。

そんなことを思っていると、これから起こるであろう大変化でさえも乗り越えていけるような気になってくるのではなかろうか。

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