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正確な無知の知

この世界をわかった気になっていることってないですか?
いまの日本とか、いまの世界とか、自分なりにこんな風に捉えていますというのは人によってあると思うんですが、それ自体を疑った方が良いということに最近気づきました。

私なんかは、今の権威的なものが崩れて欲しいという願望みたいなものがあり、それをもとに世界を見ようとします。そうすると今の世界はあたかも崩れていく直前であるかのように思えてきます。その根拠となる材料は便利なネット検索によってたくさん情報を得るようになりますが、いま流行りのフェイクニュースだったり、同じような価値観の人間が願望のように語ったものを信じたりします。

自分の願望を世界に投影して、それをもとに世界を見ている。

私もそのような強烈な色メガネを通して世界を見ていました。ただ世界はそのようには出来ていません。もっと複雑に絡み合っていますし、実際に起きていることは私たちが知り得ない未知の領域がほとんどです。それぞれが妄想を共有しているグループがいるだけかもしれません。まさに吉本隆明の「共同幻想」そのものです。

最近、興味を引いた問いに、量子力学の「観測問題」ということがあります。
人間が見ていると世界は出現していて、見ていないと存在すら証明できない。

東洋の哲学は、明らかにこの「見ていない世界」を想定したものです。
禅問答の「父母未生以前の面目」なんてこのことだと思っています。父と母が産まれる前の自分について想像するっていうお題目ですが、量子力学の観測しない状態と似ていると感じるのは私だけでしょうか?

やはり世界は「無い」と同時に「有る」と言えるかもしれません。観測すると世界は出現するけれど、観測していないと「全て可能性を孕んだ無し」なのです。観測していない世界は時間も超越している気がします。

そんな無限の可能性を孕んだ永遠の無の状態から、自分たちが見ている世界へと戻ってくると、存在は奇跡であると同時に幻影のようだと感じます。やがて訪れる「死」は、可能性の孕んだ永遠の「無」への回帰だとさえ思えてくるのです。

観測している世界は物体が出現します。それは人間の心と、物との間に「事」の学を打ち立てた南方熊楠が想起されます。

「小生の事の学というは、心界と物界とが相接して、心界が物界と雑(まじわ)りて初めて生ずるはたらきなり。」
「小生の事の学というは、心界と物界が相接して、日常あらわるる事という事」「心界が物界とまじわりて生ずる事という事」

土宜法龍宛て、往復書簡より(1893年)

人間の心と物は密接に関係している。いま見ている世界も心との関係によって見ているとも言えます。心を抜きにして世界を見ようとすると無理があります。世界は心の投影とも言えるかもしれません。無数の人の心が投影しあって関係しあって出来ているのが世界だとしたら、世界の実相はより複雑であることがわかります。

ひとつ私の勘違いした例を挙げます。

BRICs諸国がドルに対抗する共通通貨を発行してドルが崩壊する。

このようなことをネットで見て半ば願望として情報を集めていました。BRICsというのはG7に代表するような欧米諸国に対抗する便利な言葉です。ロシア、中国、インド、ブラジルなど新興国側をまとめて扱います。実際にBRICsは国際会議も開かれており、私もそれで上記のようなドルの崩壊を熱望していました。しかし、事はそんなに簡単にできているでしょうか?インドと中国の二カ国を挙げても、同じグループにするのは無理があります。領土問題を抱えていたり、問題はもっと複雑です。

そんなに簡単に思い通りに世界は変わらないし、逆に変わる時は予測不可能に急速に変化していきます。

東洋の哲理、仏教の哲学を使った世界の見方をすると、世界を妄想抜きにして見てみるということです。それは、量子力学の観測していない状態ということかもしれません。そうすると量子力学が観測していないと存在を証明できないように、世界は「空」であることがわかります。色即是空です。そんな時空を越えた無の状態から、また妄想同士が織りなす世界へと戻ってきた時に、この世界はそれでいて素晴らしいと感じるかもしれません。いつだって存在は奇跡のようなものです。

メメント・モリという言葉があります。
死を想うというこですが、この話と似ています。人は存在の奇跡を腹に落とすには、存在していない自分を考えるほかありません。それは死ぬことを想うことが手っ取り早いです。いつ死ぬかわからないことをリアルに感じることによって、存在している事の奇跡を実感するのです。

そんな永遠の無、可能性を孕んだ無、死、などを通して存在の裏に潜んでいる真理がわかると、生きているということは凄いことがわかります。それによって、生き方というものは、よりフレキシブルに、自由になっていくはずです。
諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

量子もつれのように、観測するまでは両方の可能性を孕んでいる。これが叡智です。而二不二(ニニフニ)です。

このようなニニフニで世界を捉えていくと、世界はコレと言い切れません。地球自体が可能性を孕んだ胚のようなもので、どのように変化してくは未知です。知り得ません。話が長くなりましたが、世界は全くわかりません。わかり得ない。無知の知の話でした。

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