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自分との和解について


「そもそも人の怒りとは何だろう?」
と考えて、ユング心理学の理解をもとに、人がムキになって怒るというのはコンプレックスが関係しているということが分かってきた。自分の中の抑圧した心を相手に見た時に、人はムキになって怒る。だから人から何かをムキになって指摘されたりすることがあって落ち込むことがあるかもしれないが、それは正当な自分の評価ではないとも言えるかもしれない、私の中に相手の抑圧した心を見て、ムキになって怒っているだけなのである。だから怒っている人は、強い抑圧した心を持っている人とも言えるのである。だから怒りを滅却したブッダというのは、完全に自己受容している人とも言い換えられるのかもしれない。傷ついて抑圧した心というものを見つめ、自分を変化させて、あらゆる罪人まで含めた全人類的な人々を心の中に受容した人は、もはや悟っており、怒りは滅却しており、心は常に平安であろうかと思う。
よく人々を見ていると、それは自分の心の化身ではないかと思うことがある。色々な人々がいるけれど、あらゆる形に変化した大きな意味での心の形に過ぎなくて、それのどれかに大きな怒りを感じるということは、まだまだ自己受容がしっかりと出来ていないとも言えるのかもしれない。
エゴは大きければ大きいほど、反対の影なる部分も大きくなって、怒り悲しみ苦しみは大きくなっていく。よくイメージするのが自然の如何ともし難い大きな流れによって生起しているだけのちっぽけな存在が、エゴによってその流れに逆らうと水の流れを堰き止めるが如く大きな抵抗を受ける。自然の偉大さによってちっぽけな自分が抗っていても全く歯が立たない。むしろ大きな流れを掴んで流れに乗る方が、よっぽど上手くいくのはこのためである。エゴが小さければ小さいほど、その流れを掴むのが上手くなる。そうするとエゴが大きい人とも付き合える。エゴが大きい人はよく間違った二項対立を迫ってくることがある。その時に決してその議論に乗らない。相手の用意したリングには上がらないというのが肝要なのかもしれない。それでいて相手と会話を続けることはできるのだ。そうすると、またその人の別の魅力に気づくことがある。
エゴを抜けたイメージというのは、波打ち際の木の葉であろうか。自然というのは時として大津波のような大きなエネルギーで人間を呑み込むようなことがある。私たちの乗り物が木の葉のような超軽量なものだったら、津波に呑み込まれてもまた浮上して生き残ることができる。逆にタイタニック号のように大きな乗り物であったら、安全に思うかもしれないが、自然の大きなエネルギーに打ちのめされて甚大な被害を受けることになるのかもしれない。
エネルギーの交わし方、緩衝材としての作用を発揮するには、エゴが小さくないと無理なのである。
だから仏教というものが、このストレス社会においてとても有用な作用をもたらすことは言うまでもない。ブッダのあり方というものがいかに素晴らしい人の状態であるかは本当に実践していくにつれてよくわかるものだ。
私の大好きな言葉で「諸行無常」「諸法無我」という言葉がある。
諸行無常というのは、この世のものは全てにおいて常に変化しているということだ。諸法無我というのは、この世に存在するものは因縁によって生じるものであって不変の実体である我は存在しないという素晴らしい真理だ。
この二つの真理がよく腹に落ちていると、生きるということは格段に楽になる。この普遍の実体と思っている「我」を落とすためには、自分との深い意味での和解が必要なのである。今まで形成してきた自分というものの傷や痛みや苦しみというものをジッと見つめて見つめて自分で自分を変化して受容した先に自分との和解が見えてきて、そうやって人は本当の自己受容したブッダに近い人となり得るのかもしれない。
今日はこの辺にしておきます。

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