見出し画像

無常を腹に落として執着で遊べ!

今までの自分のnote記事を見返してみて何が言いたかったのかということが朧げながら見えてきたので総括的な記事を書こうと思う。
私が言いたかったのは、仏教の一番の核となる思想、「無常」という一点に尽きる。無常=いかなるものも永久に存在する本質というものをもっているわけではない。

世の中はうたかた(泡沫)のごとしと見よ。
世の中はかげろう(蜉蝣)のごとしと見よ。
世の中をこのように観じる人は、死王もかれをみることがない。

ダンマパダ

無常=空
ブッダの一番弟子であるサーリプッタが「空に住する境地」でおりました!と報告したところ、「みごとだみごとだ!偉大な人の境地に住するとは、すなわち空に住するということだ!」とブッダが褒め称えたようである。
無常感を磨くということは、空ということを腹に落とすということだ。

妻が私の言っている無常感についてやっとわかってきたと最近言っていた。しかし、執着があるから、無常であることは苦しいことだと漏らしてた。なるほど、だからその執着を越えることが、仏教の本質であると思う。執着を捨て去り、無常感を腹に落とした時に、無常である世の中でもドッシリとした安心感がある。執着しないと、無常であっても心が揺るがない。これが仏教の法、ダルマということだろう。仏教学者の中村元さんが釈尊の最後の言葉を引用して、「自己に頼れ、法(ダルマ)に頼れ」と説いていた。無常である世の中では何にも頼るものがない。頼っていたものは、水の泡みたいに弾けてなくなってしまう。しかし、自分が思うところの倫理に頼って生きていくということだろう。

無常の世の中での安心感というものを育むのに、存在の奇跡に思いを馳せるということもある。私の存在は父母から始まって、祖父、曽祖父、高祖父と遡っていくと、過去に生きた多くの人々の存在のピラミッドの頂点に自分の存在がいるということ。人だけでなく、山川草木あらゆるものに支えられて存在しているということ。この存在の奇跡を感受することと、無常を腹に落とすことによって、生きているということは素晴らしいことだとわかる。一人で生きている人なんていない、みんな多くの人や物や自然に支えられて生きている。

そのようにしてからまた執着に塗れたこの世界にもどってくる。けれど、昔の自分ではない。この世界が無常だということがわかっている。だから遊べるのだ。執着ということをしないならば、この世界はおもちゃ箱だ。遊びでしかない。世界はうたかた(泡沫)、水泡のようなものだ。いずれ弾ける。弾けるのだったら、思いっきり遊ぼうではないか。遊んで、遊んで、遊びまくっても、いずれ何もなくなる。

ひろゆきが無差別殺人の犯人を揶揄して「無敵の人」と言ったのが記憶に新しいが、ある意味で似ている。ただし、悪い感情を元にしていない。それらを遥かに越えて慈悲ある悟りの境地に立った上で、世の中を巨大なゲームセンターのごとく遊び倒す。仕事すら遊びだ。そのようにして一旦、無常や存在の奇跡をしっかりと腹に落としてから、この世界をおもちゃ箱のようにして遊ぼう!

私が言いたかったのはそれだけです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?