イタリア歴史探訪①RIMINI

こんにちは、ハヤシヨウヘイです。
これまでイタリア生活、料理人としての体験を主に書いてきましたが、実は私は歴史が好きで、その中でも考古学が特に好きなんです。
イタリアという国の歴史は古く、各地に遺跡や歴史的建築物が残っています。(ここは木造建築の日本と石造のイタリアの違いでしょうか)
古代ローマのお話なんか胸が熱くなりますよね。

各地に残る歴史的建築、ここリミニでも例外ではなく、いくつかの遺跡や古い教会などが存在しています。
今回はそんな建築物、歴史と併せてお話していきたいと思います。


リミニ、その歴史


リミニの歴史は古く、共和制ローマ時代までさかのぼります。アリミヌムという植民都市がその始まりで、紀元前6世紀のこと。
北へとつながるエミリア街道と南へとつながるフラミニア街道の交差するちょうど中間地点として発展していきました。
要所として権力者、皇帝の関心ひきつけ、今でも帝政ローマ時代のいくつかの建築物が残されています。


これはローマのコロッセオでも有名な円形闘技場、大きさはコロッセオとはくらぶべくもありませんが、2世紀初頭のものが現存しています。住居などの施設の一部になっているのはイタリアあるあるということもできますが、少し残念です。


こちらはティベリオ橋、リミニ中心部とサンジュリアーノ地区をつないでいます。今でも現役の強固な石造りの構造は手すり部分を含め、一見の価値があります。


博物館の一部でもあるDomus di chirurgo ドムス・ディ・キルルゴ(外科医の住居または職場)は同じく2世紀のものでありながら、土台部分の多くが残されています。
当時の医療道具など数多く発掘されており、単にローマ時代の住居というだけでなく、ローマ時代の医療の様子を理解意味でも大きな歴史的価値があります。
その床部分にはモザイクが残されており現地でも見学することができますが、博物館内で保存されたものもあります。

395年のローマ帝国分裂、5世紀終わりのゴート族(ゲルマン・ドイツ系)の流入によりリミニは他民族に一時征服されることとなります。
ここから16世紀初頭までの中世期、ローマの教皇領の都市に編入されるまで、ほかの小都市と同じように多くの勢力によって翻弄されることとなりました。
代表的なのはマラテスタ家、13世紀から16世紀まで、時に他勢力に追い出されながらも、リミニを統治していました。
中でもシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ(1417~1468)はのちに「リミニの狼」とも呼ばれ、リミニの勢力を拡大し、最後には教皇側に多くの領地を奪われた人物でもあります。
そのマラテスタ家の居城がこちら⇩

入り口付近の様子
裏手側、一部野外ステージとして使われています。



参考までに、イタリアは1861年にイタリア王国として統一されるまで、ローマ帝国以降統一国家であったことはありません。日本でいうなら、江戸幕府によって日本がほぼ統一されるまでの戦国時代のようなものでしょうか。
それまではイタリア半島内の小国家、都市国家が乱立していた状態で、ローマ教皇庁、スペイン、フランス、オーストリアやドイツ(今の国名でいうなら)など多くの国々との関係性の中で生きていました。
リミニもその都市国家の例にもれず、常に戦火にさらされていたんですね。

現在リミニは観光都市として非常に有名で、国内外から多くの人々がやってきます。
日本でも知られているかもしれませんが、白黒映画時代から活躍していた映画監督のFederico Felliniの出身地でもあります。
彼の博物館もあるようなので今度行ってみますね。

これまでもイタリア国内のいろいろな都市を旅行してきましたが、折を見て記事にしていきたいと思います。

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