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ニュースと漫才

某テレビ局のニュースを見ていると、「世論調査」たるものの結果がよく伝えられる。賛成の人は何パーセント、反対の人は何パーセントです、などと言う。一応調査対象者や調査方法などについての説明もあるが、意図的な感じがしてついつい身構えてしまう。
同じ調査を違う放送局や新聞社が行うと、全然違う数値になったりするから、余計に怪しい。

子供は自分の願いが叶えられないとよく、
「だってみんなが持ってるのに」「みんながそうするのに」
と不満を言う。それが本当に「みんな」ではなくても、「みんな」より我が子は出遅れている、劣っている、と親に知らしめ動揺させることで自分の意思を通そうとする。
世論調査は「みんな」とは言わないが、「この割合の人がこういう風に言っていますよ」というアピールになる。それがひょっとしたら誰かにとって都合よく調整された数字だったとしても、「ふーん、百人いたら三十人がそう思うのか」という受け止め方をする人はいる。そしてその事実に、少なからず影響を受ける人もいる。

メディアからもたらされる情報は、あくまでも個々人の「自分で考える為の材料」たる必要がある。そこに「こういう風に感じ取らせよう」というような、こちらの思考と感情を操作しようとする匂いを嗅ぎとった時、私は俄かに不快感を覚え、その情報の受け取りを拒みたくなる。最近殊にこういった情報が多いな、と感じるのは年齢を重ねてひねくれてしまった、ということなのかなあ、と自嘲している。
何もニュースに限ったことではない。私がベテラン漫才師の会話ほどリラックスして楽しめるのは、「このネタは絶対ウケるに違いない」といった、聴衆の感覚を先取りしようとする気持ちを感じさせないからだと思う。
所謂「ウケ狙い」の意図を明確に感じた時、聴衆は不満になる。ウケるかウケないかは聴衆自身が判断することで、決して漫才師が先取りすることはできないからである。
厳しい世界である。

他人の領分に入ろうとする試みは、多くが失敗に終わる。
こう感じて下さい、こう考えて下さい、なんて言われて、はいそうします、と答える人はロボットである。自分の意思がない。
ざっくりと似たような傾向の意見、考え方の近い意見というのはあっても、個々の人の話を聞けば、きっと細かな違いが出てくる。当たり前だ。そこをまとめることは無理だ。あくまでも「傾向」の話で、「意見そのもの」ではない。

そして他人の感じ方を自分の都合の良い方に誘導しようとする試みは、自身の身の破滅を招く。人は強制されるのを嫌う生き物だ。強制されると分かれば、距離を置くようになるだろう。滑稽なことに、ウケようウケようと思って一生懸命になればなるほど、他人は離れていく。離すまいと必死になれば、更に他人を遠のけることになる。
愚かなことだが、この渦中にいる時は気付かないようである。

大袈裟なポリシーや美学を声高に主張する必要はないと思うが、「自分はこうしたい」「自分はこう考える」といった本物の「主張」を感じることがとても少なくなったなあ、と感じる。
こういった垂れ流しの情報に迎合することが良いこと、「普通」なんだよ、というプロパガンダ的押しつけを感じることも増えた。
メディア批判は簡単だが、一方でメディアをそのように育ててしまったのは自分達なのだなあ、とそれまでの自分を顧みる。「大勢が言う事は正しいこと」「メディアが言う事は正しいこと」という間違った認識が、抗おうとしても自分の中にもしっかり植え付けられて、深層意識のどこかにあるのだろう。

「自分」の本当の声に耳を澄ませる。
これがしっかりできていれば、どんな垂れ流し情報が自分を惑わそうとしても大丈夫だと思う。
「本当の声」は理屈ではない。「感覚」である。「なんかイヤ」「なんか鬱陶しい」と思ったら、「信じられない罪悪感」とはサヨナラしてちょっと距離を置いてみる。
それがいつもご機嫌で居られる、「コツ」だと思っている。