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押すな押すな

合奏の時などに
「そのフレーズ、押してますよ」
と指揮者から言われると、とても恥ずかしい思いをする。この場合、『押す』と言うのは『時間が迫っている、或いは過ぎている』ことを指すのではない。
そのニュアンスを文章で表現するのが難しい言葉だが、『押す』とは『表現の仕方が一音ずつのぶつ切りになっており、フレーズ全体を音楽的に捉えられていない』というくらいの意味である。演歌の『こぶし』を一音ずつにかけているような感じ・・・といったらそのダサくてわざと臭い感じが、ある程度はご理解頂けるかも知れない。程度の差はあるが、初級者がうっかりやりがちな表現方法のミスである。
本人は全く気付かず、気分良く吹いている場合が多いから、指摘されると余計に恥ずかしい。

レッスンをきちんと受けていると、こういうことはなくなる。フレーズの大きな括りを、楽譜を目で見た段階である程度認識できるようになるからだ。こればかりは訓練の賜物というしかない。
全くの初心者は『押す』ことはない。音とリズムを追うのに必死だから、吹く時に『何か表現しよう』という積極的な気持ちになるところまで行かないのである。
ある程度音もわかり、拍も取れる状態で、曲も『なんとなく知ってる』という中途半端なケースが一番『押し』てしまいやすい。
この『なんとなく知ってる』がミソだ。『キチンと理解している』だと『押す』ことはない。『気分』だけで曲を『理解した気になっている』と、やってしまうのである。

何を隠そう、私はK先生に師事する前、物凄く『押して』しまう人だった。気分で吹くのが単純に気持ち良かったのである。自分の吹き方がおかしいなんて露ほども思わずに、堂々と『押し』まくっていた。周りはさぞかし迷惑だったことだろうと思う。
でも大人に対して、本人が気分良く吹いているのに『押してるで』と注意するのはなかなか勇気が要る。実際に私に注意してくれる人は居なかった。
ただ一人、例外がいた。音楽監督だった、故A先生である。

ある日の合奏時、先生はピタリと棒を止めると私の方を見てこう言った。
「ミツルさん!あんた、いつも家で旦那さんのこと、そんな風に押して押して押し倒してんのか!?そんなに押したら危ないで!」
みんな大爆笑になった。私もついつい笑ってしまった。そして自分の吹き方を『ん?変だったかな?』と初めて冷静に振り返ることになった。
この時の体験は恥ずかしい上に強烈なインパクトだったから、私はずっと覚えていた。

K先生に習いだした時私は、
「私、『押す』って言われてしまうんです」
と自分の悩みを話した。先生は、
「曲をいい加減にしか理解していないから、そうなるんです。フレーズをしっかり捉えれば、『押す』ことはありません。譜面をよく見なさい」
と手厳しかった。
レッスン時は少しでも『押す』と、
「はいそこ、『押さない』!」
とすぐに演奏をストップされてしまったから、嫌でも押さないようになった。かくして私は夫を押し倒すことなく、無事に『押す女』を卒業出来たのである。

自分が『押す』ことをしなくなると、他人が『押して』いるのが敏感にわかるようになる。その度に『ああ、あの頃の私と同じだ』と思う。
でもあの頃の私に皆がなかなか注意出来なかったように、私も積極的に注意することはない。内心と矛盾するようだけど、残念な吹き方だなあ、と密かに思うだけだ。

楽しく吹ければそれで良いのだが、やっぱり『押す』のはダサくてみっともなくてカッコ悪い。わかっている者には聴きづらい。
当たり前だけれど、プロは絶対に『押す』ことはない。そのプロの演奏を聴いただけで分かった『つもり』になり、気分良く『押す』のが一番難儀である。
四分音符の連続など、ついつい『押して』しまいがちなフレーズは、曲のあちこちに散らばっている。単純で簡単に思える曲ほど要注意だ。
ついなめてかかりそうになる度に、あの時のユーモアたっぷりのA先生のお言葉を有難く思い出している。