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気の毒な話

夫の行きつけの理髪店については、以前拙記事で取り上げたことがある。おばさんと娘さんで営む小さな店は街の比較的大きな通りに面しており、よく繁盛している。
夫はおしゃべり好きのこの母娘との会話が大好きで、行く度に「おもろかったわあ」と言いながら帰ってきて、内容を聞かせてくれる。いつもとても面白い話ばかりで、二人して笑ってしまう。
だがこの前聞いた話は可笑しいながら、ちょっと気の毒になってしまった。

ここは『資〇堂メンズサロン』などという古めかしい看板がかかっているような「昭和」な雰囲気の店である。店の名前は通りに面してカタカナでべったりと扉に書かれており、誰でもわかる。私もここに来たての頃、一発で名前を憶えてしまった。
ある時、一人の男性がやってきて
「懐かしい」
としきりに言うので、おばさんは誰だろう、と思ったそうだ。その頃は病気で亡くなってしまったおばさんの夫もまだ健在で、店主であった。二人してその男性の話を聞くと、夫の父である先代の店主時代によく来ていたという。
しかしそれにしては若いなあ、と思いつつ適当に相槌を打っていると、
「実は東京まで出たいのだが、生憎持ち合わせが足りない。少しお金を貸してくれないか」
という話になった。おばさん夫婦が顔を見合わせているとその男性は、
「タダで、とは言わない。自分は現金の持ち合わせがないだけで、これならある」
と言って近くにある大きな百貨店の商品券を三万円分、差し出した。
「これを渡すから、二万円貸して欲しい。一万円分は急にきてこんなことを頼んだ分の迷惑料として差し上げる」
といって頭を下げる。客商売だし、本当に先代のお客なら申し訳ないので、店主は渋々承諾し、二万円を貸した。
男性は礼を言って店を後にした。

狐につままれたような気分でいたおばさん夫婦だったが、折角こんなに商品券があるのだから滅多に行かないこの百貨店で美味しい肉を買ってこよう、それですき焼きでもしよう、という話になった。
店主が休日に電車でその百貨店に出かけ、いつもは買わないような良い肉を沢山買った。ところが包んでもらって件の商品券を差し出すと、店員の顔色が変わった。
「ちょっと来て下さい」
店主はいつの間にか数人のスーツ姿の男性店員に取り囲まれ、訳がわからないまま店の奥の部屋に連れていかれた。勿論肉はお預けである。
男性店員が厳しく店主を問い詰めた。最近偽造商品券が出回っており、警戒を強化していたのだという。店主が使った商品券のナンバーは「要警戒」として店員に周知されていたものだった。
店主は入手の経緯を話したが、なかなか信じてもらえずとても困った。長い時間かかってやっとわかってもらえたが、肉は買えないしとんでもない目に合うしで踏んだり蹴ったりだったそうだ。
所謂「寸借詐欺」というものだと思う。折角の休みに、近いとは言えわざわざ電車に乗って買い物に行ってこんな扱いを受けるなんて、たまったものではない。

すき焼きの準備をして待っていたおばさんも、帰ってきた夫から事の顛末を聞いて驚いたり落胆したりしたが、
「命を取られたよりマシ」
と思うことにしたそうだ。それ以来、どんなに大切なお客様でも借金の申し込みは断っており、ほんの少額の場合は
「返しに来なくて良い」
といって渡すことにした。こう言って渡した人に限ってキチンと返しに来るから不思議なものだ、とおばさんはウチの夫に笑いながら話してくれたらしい。

客商売はお客様からの頼み事を断りにくいから大変やなあ、と夫と話した。「命を取られたよりマシ」ではあるが、おばさん夫婦もそう割り切るには時間がかかったろう。仕事をしてコツコツ貯めたお金をこんな風にだまし取られるなんて、本当にバカバカしい。お金をただ取られるより酷い。
おばさんの亡き夫君が、天国で先代と一緒にすき焼きをたらふく食べていてくれれば良いなあ、と思う。