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マウント

私はずっと「マウントを取る人」が大嫌いだった。癪に障るし、腹が立つ。こっちが不快な感情を起こすのを知っていて面白がっているようにしか見えなかった。いつもイライラしたし、その人のことを思い出すだけで気分が悪かった。「公害」だと思っていた。
所属していた楽団にもいたし、職場にもいた。ありとあらゆるところでお目にかかった。こいつらはどういう生物なのか、とこんな人間を創造した神をちょっと恨めしく思ったりしていた。

例えばずっと前の楽団で一緒だったXさん。自分の経歴を自慢する人だった。
どんな話をしていても、彼は自分の方に話の中心を持って行く。自虐もあったが、その話には自分は凄いんだぜ、という本心が透けて見えた。彼の自慢話が始まると、私の不快指数は一気に上がった。楽しいことをしていても、楽しくなくなった。なるべく距離を取った。しかし相手は私が不快になるのを楽しんでいるかのように、絶妙な距離とタイミングで近づいて来る。本当に腹立たしく嫌だった。
Xさんの話す経歴は「微妙に詐称」といったところだった。本人によると音楽コースがあることで有名なとある大学を出ている、ということだったのだが、次第に音楽コースではない専攻の卒業生だということが判明してきたのである。
このことを知った時は、「コイツ、アホやん」と思った。愚かで哀れな奴、そんな風に見えた。

私はXさんの何を「不快」だと思ったのだろう。そこを深く考えてみた。
「自分は凄いのだ」と言われることが嫌。
嘘をついていることが嫌。
大したことない癖に、偉そうに見下してくることが嫌。
そんなところだろうか。
「自分は凄いのだ」と言われるのが不快なのは、Xさんを認めたくないという私の心の表れである。だから彼の経歴が「詐称」であることを知った時、溜飲が下がる思いをしたのだろう。自分の「認めたくない」思いに、客観的な事実という、「世間」のお墨付きを頂いたからだ。
誰でも嘘はつく。世の中には優しい嘘もあるが、こういう醜い嘘もある。だが、こういう嘘はいずれ自分の首を絞める。誰だってそんなことよくわかっている。Xさんはきっとビクビクしながら自慢していたに違いない。
問題はそれを「ザマアミロ」と考えた私の感覚にある。本来なら「どうでも良い、他人のこと」なのに、「ザマアミロ」と考えることで「自分の問題」にしてしまっているのだ。そしてXさんを見下すことで、「自分はこの人より上等な人間なのだ」と思いたい気持ちを満足させられたことにホッとしている。「逆マウント」を取っている。恥ずかしいかな、なんとも小さな人間である。
Xさんを「たいしたことない」と思うのは「私」の評価基準によるものだ。「偉そうにしている」「見下されている」と感じるのは「私」なのだ。だから他の人がXさんを尊敬しようが、バカにしようが勝手である。なのに当時の私は「Xさんは嫌な奴」という自分の感覚に、賛成の意見が欲しかった。その行為こそが、「嫌な自分」を作っていっているとも気付かずに。

「マウントを取られる」という感覚を覚える時は、自分で「取られた気分」になっているのだと、今では思う。
誰でも弱い所、自信のない所、はある。他人から見たら「えっ、それ悩むところ?」と思うようなこともあるだろう。完璧な人間は存在しないというが、それは「完璧」の条件が人によって違うからだと思う。
自分のそういった「自信のない部分」を誰かに刺激されると、人は反射的に自分を守ろうとする。だから「マウント取られた」と思うのだ。誰かに「マウント取られた仲間」になって欲しいと思うのは、一人だと怖いからである。

今、私が「マウント取られた」と感じることはゼロである。
ある人に対して昔の私のように
「あの人、マウント取ってくるよね?」
と同意を求めてくる人が数人居るが、私はそうは感じていないので、
「そう?」
といつも首を傾げている。別に強がってもいない。その人のことを「ああ、この人はマウント取りたいんだな」と思って「眺めて」いるだけである。腹は立たない。
私は弱点と欠点だらけの人間である。だからマウントを取る材料には事欠かない筈だ。それでも取られたと思わないのは、私がそういう欠点だらけの自分を「それでいい」とそのまま認めているからだろう。「自分を認める為に誰かと比較する必要などない」と分かっていると、「マウントを取られる」なんてことは起こり得ないのである。

私にだって、「苦手だな」と感じる人はいる。その人は「自分」にとって「そういう人」なのだ、とただ事実を受け止めることにしている。
そして何を「苦手」と感じたのか、考える。すると自分の内面の弱いところや傷ついた記憶が見えてくる。そこを優しく愛おしむことで、自分の心を育てていく。
二度とゴメンこうむりたいようなこともあるだろうが、どんな人との出会いも、大事な得難いものであると私は思う。