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お茶屋の店主

いつの頃からか忘れたが、夕飯後に夫婦で緑茶を飲む習慣である。茶葉の購入は専ら私の仕事だ。
以前住んでいたところは茶の名産地がすぐ近くにあり、いつでも近所で美味しい茶葉を購入することが出来た。ここ関東に来た時、茶の産地は近くにないけれど静岡茶でも扱っている店があると良いがなあ、と思っていた。
高級な茶葉を扱っていそうな百貨店はぐっと近くなったが、普段飲むものだからそこまで上等なものでなくても良い。それにいくら近いと言っても、わざわざ電車に乗って茶葉だけを買いに行きたくない。買い物ついでに、近所で買えるところを探していた。

歩いて行けそうな店は一つきりしかなかった。ホームページによればとても小さいが、地元には古くからある店のようだった。現在の店主は二代目だと書いてある。扱っている品目は多くはないが、ウチで飲む分には十分なような気がしたので、一度覗いてみることにした。

近くのショッピングモールの一階にその店はある。ショッピングモールの入り口に近づくと、いつも茶を焙じる香ばしい香りが漂ってくる。こういう香りを嗅ぐとワクワクしてしまう。
香りを頼りに探すと、すぐ見つかった。早速茶葉を選ぶ。鹿児島産、静岡産のものが多い。店主自ら毎年買い付けに行く、とホームページに書いてあったのを思い出した。
私は産地や茶葉の種類にこだわりはないが、夫は深蒸し茶が好きである。部位も『かりがね』は出が悪いから嫌だと言う。いちいちうるさい。が、味に納得しないと飲まずに次を買ってこいと言うので、勿体ないことにならないよう、夫の好みを最大限考慮して買うことにしている。

このお茶屋の店主が恐ろしく腰の低い人である。年齢は四十代前半かと思う。いつも紺色の作務衣のような格好に、同じ紺色の腰から下の前掛けをつけている。
初めて行った時、熱心に会員証への加入を勧められた。こういった類のカードは財布を分厚くする割に使う機会が多くなく、私は極力作らないことにしているのだが、この店主の熱心さに負けて作ってしまった。
購入金額に応じてポイントが付き、たまれば現金として使用できるので損にはならない。滅多に使わないが、それでもボツボツポイントはたまっている。
レジで会員証を読み込むと、名前が表示されるようだ。だから購入時にこのカードを渡すと店主は決まって、
「在間様!いつもありがとうございます!」
と深々とお辞儀してくれる。何か月かに一度だけ、しかもせいぜい千円前後の煎茶一袋買うだけなのでやや気恥ずかしいが、向こうはとても丁寧である。どんな表情をしたらいいのか、ちょっと困ってしまうくらいだ。

そして必ずちょっと「おまけ」をつけてくれる。夏は水出し煎茶のティーバッグをくれた。冷水の入った水筒に入れておけば冷たい緑茶が飲めるというものだが、これがとても美味しい。
気に入ってとうとうお徳用袋で大量に購入し、夫婦して職場に毎日持参していた。向こうの思うつぼだったかもしれないが、あの「おまけ」がなかったら多分見向きもしていない商品である。
先日は「べにふうき茶」だった。花粉症に効果があるんだそうで、
「お友達にも是非お勧めしてみて下さい」
と二つ折れになって差し出されたので、有難く頂いて帰ってきた。花粉の飛ぶ時期にちょっと試してみようかと思っている。
まんまと店主の策略に乗せられているような気がするが。

いつも私が楽しみにしているのは、
「お時間ございますか?よろしければお茶をお淹れ致します」
といって店主手ずから茶を淹れてくれることだ。
夫は煎茶を美味しく淹れることに非常に熱心で、お湯に温度計を突っ込んで睨みつけているが、悪いけどこの店主の淹れてくれるお茶には遠く及ばない。とろっとコクがあって、煎茶ってこんなに美味しかったっけ、と思う。
どこ産の何茶です、と簡単に説明はしてくれるが、飲んでいる間は店主は黙って控えている。そして
「ご馳走様でした。美味しかったです。ありがとう」
というと嬉しそうに空の紙コップを受け取り、
「またお越しくださいませ」
とまた二つ折れになって見送ってくれる。
煎茶一袋で随分得をした気分になる。
今いる楽団の音楽監督のN先生もここのファンで、よく足を運ばれるそうだ。
「あの二代目は本当に丁寧な人なんだよなあ。つい買わなくても良いものまで買っちゃうんだよ」
と仰っていた。わかる気がする。

たかがお茶、されどお茶。
新しい土地で、良いお店に出会えて良かった。