次の十年

十歳になった時は、飛び上がるくらい嬉しかった。
母は
「まあ、ウチの子が二桁になった。なんて嬉しい」
と満足そうに頭を撫でてくれた。『二桁』という言い方に、当時の私はちょっと今までの誕生日とは違った、くすぐったい緊張を感じた覚えがある。
成長の遅かった私は、やっとその頃になって足がニ十センチになった。今はどうだか知らないが、当時私の憧れのオシャレな紐靴はニ十センチ未満ではなかった。だから十歳の誕生日に初めての紐靴を買ってもらったことは大変嬉しく、デザインまで未だに覚えている。

二十歳の誕生日はフワフワした気持ちで迎えた。
時はバブル全盛期。日経平均株価というのは、毎日史上最高値を更新するものだと本気で信じていた、あまりにも『もの知らず』の私だった。世の中はそれが許されるくらい、『享楽』の二文字にとち狂っていた。サラリーマンも、学生も、「いかにサボるか」「いかに遊ぶか」を極めることが美徳とされるような、人間の在り方の基本を忘れ去ったような、そんな時代だった。
そんな空気の中で「今日から大人の仲間入りですよ」と言われても、実感は全くわかなかった。何を以て「大人」というのか、全然理解できなかった。
理解できないことに心のどこかで焦りつつ、まあまだええやん、と周囲に流されて時間をやり過ごしていた。

三十歳の誕生日はささくれた気持ちで迎えた。
親との確執が表面化し、交際相手を巡って激しく争っていた。反対する両親を嫌悪し、その分ますます相手にのめりこんだ。
だが私がのめりこんでいたのは本当は相手にではなく、「結婚」の二文字だった。私は結婚と結婚したかった。結婚して、この窮屈で過保護な管理者どもから何とかして逃げたかった。
仕事もしんどさだけが募っていた頃だった。職場では数年前から上司と激しく対立し続けており、やってもやっても報われない、と投げやりになっていた。色んな事が全部良くない方良くない方に巡っていき、そんな自分の運命を呪っていた。そこから逃げる為にも、結婚という一発逆転を浅はかにも狙っていた。
結果的に親の圧力に屈する形で私は交際相手と別れ、その約一年後、夫と結婚することになった。

四十歳の誕生日はクラリネットに夢中だった。
K先生と出会って一年半ほど経っていた。来る日も来る日も、家事の合間をぬって練習していた。兎に角上手くなりたくて、ヒマさえあれば練習していた。初めて『手応え』と呼べるものの存在に気付き、それが味わいたくて必死になっていた。
学生時代にやり残したことを出来る喜びでいっぱいだった。だが、自分の中にわだかまっている『家族の課題』には触れようとせず、黙って蓋をして知らないふりを決め込んでいた。
後でどんなツケが来るかも知らずに。

五十歳の誕生日は到底祝う気になれなかった。
子供が心身の調子を崩したというのに、それをどうしてやったら良いか、分からないまま、ただ右往左往していたのである。そんな私に向けられた子供の悲しみと憎しみに満ちた視線が苦しく、辛かった。自分が代われるなら代わってやりたい、と思った。
子供の望みはそんな事ではなかったのに。
先祖代々から連綿と引き継いできた『家族の課題』という負の連鎖を、私の代で断ち切る時が近づきつつあった。

まだ六十歳の誕生日には随分暇がある。
でも多分、今までの十年毎で一番嬉しい誕生日になるに違いない、と思っている。
どうしてそう言えるのか、と言えば、私はやっと「私が私であることを受け入れた」からだ。

思い通りにならないことは、世の中に沢山ある。だけど『思い通りにしよう』とさえしなければ、それはそんなにしんどいことではない。「イライラ」したり、「しょんぼり」するのは、「思い通りにしたい」考えの発露である。そういう時は「そういう考えを今の自分は持っているのだなあ」とただ確認するだけで良い。
考え方は人の数だけある。良いも悪いもない。そこに『評価』は不要である。自分とは無関係の、誰かの大切な考えであるというだけだ。
ただ、『そのまんま』の現実を見つめる。そこで起こった自分の感情を否定しない。『そのまんま』受け入れる。良いも悪いも考えないが、「自分はどうありたいか」だけは、常に頭から離れることはない。

浮いたり沈んだり、私の気持ちは常に揺れている。だけど、いつも静かに漂っている。
何歳になっても年齢を重ねることは、自分の内面の成長を振り返れる、しみじみ嬉しいものでもあると、最近になって思う。