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嫌いなあの子は

私にはほんの数ヶ月前まで、とても嫌いな子がいた。
夢に出てきてうなされるくらい、嫌いだった。

別に何をされた訳でもない。
ただ、その子を見ると胸がザワザワし、苦しくなるのだ。
何故こんなに嫌いなのか、考えてみた事がある。

マウントを取る事が嫌である。
大勢で話していても、会話が全てその子の望む方向に持って行かれる。その子が中心になるように、いつも強引に話の流れを変えられる。
一緒に話の輪にいると、不快になる。

人の悪口が多い。というか、何かの拍子に必ず誰かを悪く言う。聞いていて気分が良くない。それしか言う事ないんか、じゃあそういうお前どやねん、と言いたくなる。

自分の中途半端な知識を、さも凄い知識であるようにひけらかす態度もイライラする。
バカめ、それが中途半端な知識である事知らんのか。自分が凄い物知りみたいな顔して得意そうに吹聴しよって、アホにも程がある、と心の中でしかめっ面をする。

当時の私は、その子の事を自分の他の人達も嫌わねば気が済まなかった。自分と同じようにその子の事を「嫌い!」と言ってくれる人を密かに探していた。

それだけで私も十分"嫌な奴"である。
同調者さえいれば、人を悪く言っている(思っている)事を自らが正当化出来ると何処かで思っていたのだろう。と言うことは『自分の考えが正しくない』とわかっていた事になる。

マウントを取られて不快なのは、自分も自分の好きな話で中心になって盛り上がりたいのを邪魔されるから。人の悪口を聞くのが嫌なのは、実は何処かで同調しているのに『自分は悪口を言うようなこんな下劣な人間ではない』と思いたいから。
中途半端な知識をひけらかすのが嫌なのは、自分もその知識に自信がなくて、公にするのを控えている為、他己承認を得られず悔しい思いをしているのを認めたくないから。
自分に出来ない事をしゃあしゃあとしている事に「ズルい!」と嫉妬しているから。

何のことはない。全部"自分発"の"嫌い"であったのだ。

嫌いな人は自分の鏡だという。
"嫌い"には"実はそうありたい"自分が隠れている。

昔の私は傲慢で、こういう嫌な人に会う度に、『あんな事をするなんて、あの人は絶対これから先良い事がないに違いない』と密かに"脳内丑の刻参り"をしていたものだった。
100%他責で、解決は他人に丸投げである。これでは永遠に私の心の平穏は訪れない。

『解決』『納得』は自分でするもので、他人がくれる物では絶対にない。
第一、他人が自分の希望通りに変わってくれる訳がないではないか。そんな人はこの世にいない。
それにどんな相手であろうと、誰かを自分の思い通りにしようなんて、厚かましい考えである。

『解決』の矢印の向きを自分の方向に変えるのは容易くはない。だが、根気強くやるしかない。

世の中、他責しか知らない人による悲しい事件が後を絶たない。
他責は悲劇の素である。
他人はコントロール不可能である。それを屈服させようという理不尽な力には、抵抗がうまれて当然だからだ。

嫌いな人がいても良い。
だが"自分の感情の解決はあくまで自分の中でのみ可能である"と言う事により多くの人が気付けば、世の中はもっと平和になると思う。
まずは自分から、始めたい。