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My World

我が夫はテレビをつけたままYouTubeを観て聴きながら、手元はアマチュア無線のモールス信号発信機をカチャカチャいわせる、と言うことが平気で出来る人である。近くにいる人間(私)にはテレビの音声とYouTubeの音(絶対にイヤホンを着けようとしない)と発信機のカチャカチャ音が全て聞こえている。気になってしょうがない。耐えかねて、
「ゴメン、どれか消して」
というと初めて気付いたように
「おう、ゴメン」
と言ってテレビを消す。どうやらテレビの音声は夫にとってはBGMに過ぎず、耳と目はYouTubeの画面に夢中になっておりながら、手だけは機械的にモールス信号を叩いている、という感覚がバラバラの不思議な状態である、ということになる。

私は要らない音が沢山鳴っているとイライラしてしまう。「要らない」というのは自分の基準なので、何を以て要らないというのかははっきりしないが、「神経に障る」音は聴きたくない。人混みが嫌いな理由の一つもこれである。
必要があって観ているテレビならそうは思わない。私好みの番組でなくても別に何ともない。が、惰性で流れているような音は大嫌いである。「なんとなくついているテレビの音」なんて、一番嫌いだ。
YouTube を観るのも聴くのも夫の勝手である。が、私には「それを聴かない権利」がある。バイクであちこち巡っている人のリポートだとか、オートキャンプの実況中継なんて、何が面白いのかさっぱりわからない。なので聴きたくない。
「イヤホンしてよ」
というと大体は
「いや」
と返ってくるので、こういう時は潔く諦める。

私の職場には音が溢れている。売り場ごとのモニター画面やプレーヤーからも店内全体へも常に何か音楽が流れている。呼び出し、売り込みなどの店内放送もある。
インカムにもしょっちゅう自分とは関係ない売り場のやり取りが入る。外しても、暫くの間耳がちょっとおかしい。仕事から上がって、シンとした更衣室に入るとホッとする。
何かの不具合で店内放送が流れなかったり、インカムが聞こえなかったりすると、なにか爽やかな気持ちになるのは私だけなのかなあ、と思う。

照明が明るすぎるのも苦手である。目に威圧感がある。最低限の明かりは点けるが、あっちもこっちも人のいない部屋まで煌々と明るくするのは性に合わない。しかし夫は真逆で、
「景気悪い」
といってあちこちの部屋の電気を点けて回る。
「節電は」
と言っても
「これくらい、エアコンに比べたら知れてる」
とてんで耳を貸さない。
音と明かりに関しては、夫婦で感覚が全く違う。残念ながら妥協点はない。

なぜこんなに音や光に敏感なのか。
持って生まれた気質なのかもしれないが、おそらく子供の頃、「うるさい」「静かにしろ」「電気はマメに消せ」と父に言われ続けたことが少なからず影響しているだろう。
「音をたてることはいけないこと」「電気の点け過ぎはお金が減ること」という強迫観念が刷り込まれていて、知らない間に「音をたてる→怒られる」「電気を点け過ぎる→貧乏になる」となり、身を守ろうと自衛する本能が過剰に働いてしまうのかもなあ、と思う。不要と感じる音が鳴っていたり、明かりが点いていたりすると「いつ怒られるか」とヒヤヒヤする、子供の私がまだ私の中に居るのだろう。

私がうるさいと思っていても、夫にとっては好もしい音なので、勝手に怒って「ヤメロ」とは言えない。明らかな騒音なら「近所迷惑やで」といって窘めることもできるが、家の中だけでの出来事なのでそうも言えない。
私が不要と思っても、夫が点けたいのなら明かりは消せない。
どちらかが折れることになるわけだが、そもそも「折れる」ということのない夫の性分は知り尽くしているので、私は自分の部屋に「逃げる」ことにしている。
「逃げる」は喧嘩を売るわけでも、黙認して私が我慢するわけでもない。
お互いの世界の邪魔をしないようにするのが、気持ちよく過ごせる最善の策であると思う。

にしても、よくあれだけ同時進行で色々出来るものだ。どんな音に囲まれていても、夫はその折々の「自分の世界」に夢中なのだろう。
ちょっと特異な集中力だなあ、とは思うが、羨ましいような気がすることもある。