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殺さず逃がす

我が家には虫捕り網が一本ある。もう20年以上になる品である。子供も20歳を過ぎて別居しているし、夫はアラ還、私はアラフィフ。誰も虫捕りの趣味はない。
引っ越しの際業者さんに、
「これは処分するということでよろしいですか?」
と当然のように聞かれたのだが、夫と声をそろえて
「いえ、使いますので荷物に入れます」
と答えたら、業者さんは不意を突かれたように一瞬黙って、
「あ、はい、わかりました」
と言って荷台に持っていってくれた。何に使うのか、不審に思った事だろう。

虫捕り網だから、「虫を捕る」為に使う。そう、どこかから家の中に侵入した虫を捕まえるために置いているのだ。
我が家の信条は「殺さず逃がす」。罪のない虫を、たまたま我々人間のテリトリーに入ってきたというだけでその命を奪うということはしない。こればかりは家族全員が一致した見解を持っている。

以前はマンションの随分高層階に住んでいた。すぐそばに山や田圃がある所為か、虫がとても沢山やってきた。
一番多いのが蜘蛛。奴らは風に乗って「飛んで」来るものと思われる。出しても出しても入ってくる。しかもデカい。最も大きいのになると私の掌くらいある。形は様々で、足がやたら長いのやら、細長いのやらいろいろ来る。
私は大の苦手なので、こやつらを見ると固まってしまう。今これを書いていても、頭の毛が逆立っているのがわかる。気色悪い。噛んだり刺したりしないし、益虫なのはわかりすぎるくらいわかっているけど、嫌いなものは嫌いだ。どうしようもない。
こやつらに手を触れずに無事外に出してやる際に、虫捕り網は大いに活躍する。天井に張り付いたり、壁を移動する奴らを捕まえるのは至難の業だが、網に入れるのは存外楽である。取り出すのが嫌なら、網ごとベランダに放置しておけば、翌朝には必ずと言って良いほど脱出している。あとは空っぽの網を回収して家中の平穏を取り戻す。

次に多いのは蛾。こいつはどっち向いて飛んでいくかわからないし、壁に貼りついてしまうとちょっとやそっとでは動こうとしないので、なかなか厄介な代物である。
蝶と違って網を被せられることには割合無頓着なので、あちこち飛ばないようにするのは案外簡単なのだが、網に入ってもらうのは骨が折れる。息を吹きかけてみたり、新聞紙で扇いでみたりしてなんとか壁から離れるよう、働きかける。
網に入った後はベランダで網を裏返しにして、飛んでいくよう促してやる。大抵あまり長距離は飛ばず、下手するとうちの外壁に引っ付いている。が、屋外なので良しとする。

困るのはカメムシ。うっかり触れようものならえらい目に合うので、慎重に網にお入り頂く。これは割合素直に網に入ってくれることが多い。
入っても油断は禁物で、やはり網ごとベランダに一晩放置する。大抵翌朝にはいなくなっていて、ホッと胸をなでおろす。

家の中に入っては来ないが、網戸にはいろんな生き物がやってきた。
怖いのはスズメバチで、あの大きな黄色い顔が見えるとベランダには決して出ないようにしていた。山から下りて、近隣に狩りに来るのだと思う。
変わったところではクワガタムシ。これも山から来るのだろう。子供が幼稚園のお友達に言ったら、たいそう羨ましがられたそうである。
バッタも来た。なぜあんな高層階に来たのか、よくわからない。鳥が咥えたエサを落としていったのか、かなり弱っていた。それでも網戸をたたくと、勢いよく飛んで行ったから、やっぱり山から来たのだろうか。

一番驚いた来訪者は虫ではない。コウモリである。
夕方になるとよく群れを成して飛んでいるのは見かけていたが、生きている個体をこんなに間近で見たのは初めてであった。
子供の頃実家の近くにコウモリの死骸が落ちていて、触ろうとしたら母にこっぴどく怒られたことがあったが、まじまじ見るのはその時以来である。

在宅勤務をしていた夫が、
「えらいもんが来たぞ」
というので見に行くと、握り拳くらいの大きさのコウモリが夫の部屋の網戸に貼りついていた。まだ昼間だったから、コウモリの活動時間ではない。なぜ、どこからやってきたのか、皆目わからなかったが、物凄く大人しいし微動だにしないので、ゆっくり観察することができた。
顔も身体も小さい。羽根を畳んでいるので、小さな黒い塊に見える。鋭い爪で網戸をつかんでいる。そんなに寒い季節ではなかったが、ぶるぶる小刻みに震え目はしっかり閉じている。光が嫌なのかも知れない。顔の割に大きな口。小さな悪魔のような顔だった。
日が暮れ始めた頃、気が付くとどこへともなく飛び去っていた。どこかの森からきたのだろうか。

今の家に引っ越してきてそろそろ一年になるが、以前ほど虫は来ない。建物が低いせいもあるだろうし、近くに山や田圃がないせいもあるだろう。
虫捕り網は一度、カメムシを出した時に使った程度で、最近はあまり出番がない。蜘蛛や蛾と触れ合いたいとは全く思わないので、ありがたいことである。
だから虫捕り網は最近は静かに、玄関横のスペースで待機していることが多くなった。出来ればこのまま、大活躍する日が来ない事を祈っている。